現代妖奇譚

束原ミヤコ

新月の森

第1話 序章


 かんなぎ琥珀は、もうすぐ成人の儀を控えていた。


 表面上はなんてことのない田舎の村である。

 蕎麦が美味しいとか、水が綺麗だとか、その程度しか話題に上がらない、民家よりも田畑の方が多いのではないかと思われるほどの人口の少ない村だ。

 町から村に繋がるのは、山間の細い一本道だけ。それ故、村に余程の用事がない限り、訪れる者は皆無に等しい。

 世界から、社会から隔絶されてしまったような、寂れた村の更に寂れた外れにあるこの家には、一族の者以外誰も近づかない。生い茂った雑草に隠れ、伸び放題の庭木に隠れ、ここが魔所だという事以外、人々は忘れ去っている。

 隠家、と呼ばれる魔所。神聖な巫女を外界から守る場所だとされているが、琥珀にとっては牢獄のようなものだ。


 いつまで、この呪いは続くのか。

 琥珀は変わり映えのない空と草木しか視界に入らない景色を眺めながら考える。

 色素を何処かに置き忘れてしまった様な、線の細い白い少女である。纏っているのは帯まで白い着物で、寂れた屋敷に佇む彼女はそこだけ別世界の存在のように見える。

 この村のしきたり、というよりも、覡家のしきたりで、成人の儀は十八だと決められていた。

 世間一般では二十らしいということは、琥珀は知っていた。その差異になんの意味があるのか、良くは分からないし、考えたところでどうしようもない。

 少女というにはやや年嵩だが、女というには若すぎる微妙な年齢の彼女は、その年頃特有の危うい美しさを孕んだ双眸で八畳程度の何もない畳敷きの部屋から、開け放たれた障子の先にある縁側から続く草の茂った庭を、諦観と焦燥の綯交ぜになった心境で眺めている。


 琥珀はその先の世界を知らない。

 鬱蒼と草の茂る小さな庭から続く林の先は、どういう訳か行き止まりになっている事を知っている。

 庭をぐるりと回らないと外には出られず、そこに立つ見張りの男が、もしこの庭から出ようものなら髪まで白い体の中で唯一赤い瞳を持つこの見目の通り、まるで兎を捉えるように簡単に自分を捕まえる事などは、産まれてからずっとこの場所に居続けている琥珀にとっては、自分がもうすぐ死ぬことと共に良く知っている事柄だ。


 私には、時間がない。けれど、どうする事も出来ない。

 この場所で死を待つよりほかは。


 ――本当にそれでいいのだろうか?

 たとえ私一人が諦めて運命に従ったとしても、この身に降りかかる呪いはいつまでもいつまでも続くのだ。

 かつて何人もの女がこの場所に幽閉されてきたように。

 そしてこの次その不幸が降りかかるのは、恐らくは、あの子だろう。

 琥珀の脳裏に、たおやかな長い黒髪を持った少女の姿が浮かぶ。

 数えるほどしか話した事は無いが、良く表情の変わる明るく愛らしい少女だ。今年で確か、十五歳になる筈で、しかし彼女——妹の瑠璃もまた籠の鳥であることには変わりない。

 間違っている。

 間違っているのだと、思う。

 産まれてきた子供の自由を奪う方法でしか、世界を維持できないのなら、そんな世界はたぶん間違いなのだと、幾度も考えてみたものの、琥珀には他と比べる術がないためその結論も、酷く曖昧でぼんやりとしたものだった。

 だからといって、あと数日で失われる私に何ができるのだろう。

 この場所から外の事など、何も知らないと言うのに。

 深い溜息とと共に、目を伏せる。

 どうすればいいのか、まるで分からない。何かをしなければ、とは思うが、何が出来る、とも思う。

 只管に無力なのに。

 鬱々と心が沈み、外界から自分を遮断するために膝を抱え込んだ、時だった。


「解放されたいか、琥珀」


 庭に響いた密やかな、けれども良く通る低い声に、琥珀はがばっと顔を上げる。

 いつの間にか開け放たれた障子の、草の生い茂る薄暗い庭に、大柄な男が立っていた。

 見たことがない男だ。

 昼間なのに濃い闇が溜まる見通しの悪い庭に、彼はもう何年も前からそこに居たように良く馴染んだ。

 短い髪は琥珀のそれと同じように白か、銀色だろう。翡翠のような不思議な虹彩をもつ瞳が皮肉気に細められている。ただ、肌は彼女とは違い浅黒い。

 時代錯誤な日本家屋と、着物姿の彼女とは真逆で、穴だらけのジーンズに黒いシャツとラフな恰好をし、耳には沢山の宝石のような何かが刺さっている。

 琥珀の短い人生の中で、そんな姿をした年頃の男性を見たのは初めての事だ。

 暫し、陸に吊り上げられた魚のように速迫した呼吸を繰り返す。

 言葉が出てこない。煩い鼓動を落ち着かせるために着物の前合わせを一度掴み、漸く口を開く。

「……誰?」

 結局そんな事しか言えなかった。他者とも滅多に会話をしたことのない琥珀の、久しぶりに出した声は、少し掠れていた。

「自由になりたいかと聞いている」

「どうやって……見張りは――」

「自由が欲しいのなら、俺の手を取れ」

 質問に答えない男は、庭の奥から草むらを踏みしめ、琥珀の前に立った。

 まるで物語の中の悪魔か何かに尋問されているような息苦しさを感じる。

「自由……」

 男の言葉を反芻する。

 なんて甘美な響きだろう。

 産まれてから十七年、欲しくて堪らなくて、けれども諦めてその言葉さえ忘れていた。

 ――自由に、なれる?

 名も知らない、何物なのかも分からない彼が、この場所から連れ出してくれるというのだろうか。

 一体どうして。何のために。

 そんな事は絶対に起こらないと、考える事もやめてしまっていたのに。

 いつか知らない誰かが、私をここから連れ出してくれるかもしれない。幼いころに夢想していた夢物語だ。そんなことはあるはずがないと、自嘲することを繰り返した、儚い夢だった筈。

 でも、私がここから逃げてしまったら?

 ふと、冷静になり考える。そうしたら、恐らく瑠璃が殺される。それしか方法がないのだ。

 それを考えるだけで心が凍り付いた。そんなことはあってはならない。

「……私は、ここにいなければ」

「一緒に来るんなら、贄の呪いを解く方法を教えてやる」

「本当に?」

「あぁ、その為にここに来た。さぁ、早く」

 覡琥珀は立ち上がると、裸足で庭に降りる。

 躊躇いがなかったといえば嘘になる。けれど、呪いが解けるというのなら、もう繰り返さなくて良いというのなら、それはもうすぐ失われる自分の最期の命の使い方としてはとても有益な気がした。

 死ぬのは、そのあとでも遅くはない筈。

 私にもあと、数日の猶予は残されている。


 男は琥珀に近づくと、その体を抱え上げる。

 男に触れられると、両手を氷水の中につっこんだような寒々しい感覚が琥珀の体を走った。

 何か、悪いモノなのだ、これは。

 そうは思ったが、呪を解けるという男が普通のヒトである筈がないと、妙に納得した。


 琥珀は男に抱え上げられながら、産まれて初めて忌まわしい屋敷を後にした。

 中にいてこそ薄暗い窮屈で退屈な牢獄だったが、外から見てしまえばただの古ぼけた大きな平屋にしか見えない。

 扉の前に、見知った男が倒れている。

 監視人の影虎だ。殺したのかと男に問うと、眠っているだけだと答えた。

 道の向こうに、黒い固まりがあった。

「あれは何?」

「あれは、車。自動車。箱入りのお嬢さんは知らないのか」

「知っている、けど、見た事は無いから」

 琥珀は、外の世界に竦んでいる自分に気づく。

 男に気取られないように、小さく唇を噛んだ。

 これから、見たことがない物ばかりの世界にいくのだ。

 分からなければ、聞けば良い。それだけのことだ。

 怯えては、いない。

 大丈夫。

「……名前は?」

「俺の? 知りたいか?」

「名前が無いと、不便だから」

 男は愉快そうに笑った。

「俺は、八津房やつふさ。八津房、尽」

「やつふさ、じん?」

 聞いたことも無い名前だ。

 覡の家と、関係があるのだろうか。

「覡の奴らが目覚めたら面倒だ。詳しい話は後でな」

 成人の儀を控えた今、琥珀が家から居なくなれば覡家は大騒ぎだろう。

 必死に連れ戻しに来るはずだ。

 次の新月の前に、全てを終わらせる必要がある。全てを終わらせなければ。

 琥珀の手は、自覚もないまま縋りつくように男の服をきつく握りしめていた。


 

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