第3話


 暗闇の中山道を抜け、いくつかの角を曲がると、急に道幅が広くなり車数も増えた。

 遠くに煌びやかな街の灯りが見える。景色の中に徐々に大きな建物が増え始めた。

 琥珀の狭い世界とはまるで違うそれに、暫し言葉を失う。

 これから暫く、外で生きる。

 あらためてそれを実感して、鼓動が早くなるのを感じた。

「まだ、先は長い。少し寝てろ」

 尽が気遣うように言う。

 色々聞きたいことがあったのだが、見慣れない景色や環境の変化に酷く疲れていることに気づいた。

 低く良く通る声は、男はなにか悪いモノだということは分かっているのに不思議と心地良い。

 車の揺れと、車内に流れる耳慣れない言葉を綴ったゆったりとした音楽も相まって、琥珀の瞼はいつの間にかゆっくりと閉じ、深く座席のシートに体を凭れさせていた。


 ——夢を、見ているのだろう。

 既視感のある夢だ。夢の中ではそれを感じるのに、目覚めると夢の内容を全て忘れていることを、琥珀は知っていた。

 ここ最近、儀式の日が近づくにつれてそれは顕著だ。

 琥珀は森の中を歩いていた。

 木々の隙間から日差しが差し込む、明るい森だ。砂利が敷かれた申し訳程度の細い道を、より木々が生い茂る方へと進んでいく。

 行かない方が良いのではないかと、思っている。

 けれど夢の中の琥珀は足を止める気はないようで、躊躇なく真直ぐに森の奥へと進んでいた。

 ざぁざぁ、ごうごうと鳴っているのは、水の音だ。

 滝壺があるのだ。

 奥へ奥へと進むにつれて、霧が濃くなり、視界も足場も悪くなっていく。水の音は次第に強くなり、目的地が近いことを知らせてくれる。

「……神楽」

 愛し気に、声が鼓膜を撫でる。

 少し掠れた男の声は、鳴り響く滝の水音の中でも、まるで静寂の中名を呼ばれているような錯覚を感じるほどに近い。

 近い。近いのだ。

 琥珀はびくりと身を竦ませた。

 するりと両腕が、琥珀の体に絡みつく。金縛りにあってしまったように体が動かない。背後から、吐息が首筋にかかる。抱きすくめられている。絹のような肌触りの黒い着物が、さらりと体を撫でた。

 凭れかかる様に首筋に顔を埋めているのは、一体誰なのか。

 男の着ているものと同じようなさらさらとした長い黒髪が、顔にあたる。

「待っていた。長い間。気が触れる程、長い間」

 腰を抱いている腕に力が籠る。

 ふと、腕の数がどうにも多いことに気づいた。

 体が動かないため、視線だけをどうにか向けると、それは腕ではなかった。

 大きな、硬い何か。

 それは足だ。

「……ようやく、お前を私の元に」

 琥珀の身長と同じぐらいあるかと思われる、巨大な百足の足が体中に纏わりついている。

 悲鳴は喉の奥で凍り、息だけを飲み込んだ。

 私は。

 私は――

「神楽」

 もう一度名前を呼ばれる。

 私は、どういうわけか、呼吸を早め頬を染め、この異形の姿をした男に食べられたいと、心の底から望んでいた。


 目覚めると、何故だか悲しい気持ちだった。

 白い壁と白い天井が目に入り、琥珀はゆっくりと体を起こす。

 いつもの畳敷きの四角い部屋ではない。柔らかいベッドの上だった。小さい棚の上には、手のひらサイズの観葉植物が並んでいる。壁に掛けられた時計は六時を示し、部屋の明るさから朝だということがわかる。

 車の中で眠ったことは覚えている。

 それから朝まで目覚めなかったらしい。

 限りある貴重な時間を無駄にしてしまった気がして、焦燥感に唇を噛んだ。

 琥珀は警戒した猫のようにそろりとベッドから降りると、眠っていたせいで乱れた着物を整える。

 かちゃりと扉を開き、隙間から外の様子を伺った。

 フローリングの廊下に、扉が二つ。その先には、広い空間があるようだ。

 琥珀のいる場所より明るいので、電気がついているのだろう。立ち止まっていても仕方ないのでそちらに向かうと、キッチンに立っている尽が琥珀の姿を見とめ顔をあげた。

「起きたか」

「ここは?」

「俺の家。寝てたのは、お嬢さん用の部屋だからベッドは綺麗だよ」

「私の、ベッド……」

 感慨深げに琥珀は呟く。

 琥珀の物。その言葉は初めてだった。今まで琥珀の持ち物といえるものといえば、自分の体ぐらいのものだったからだ。

 立ち止まっている琥珀の躊躇いに気づいたのか、尽は困ったように少し笑った。 

「安心しろ、寝てるお嬢さんに何かする程飢えてない」

「あなたに殺されるとは思っていないけど……」

「俺がお嬢さんを殺してどうするんだ」

 尽は肩を震わせてひとしきり笑う。何が面白いのか分からないが、良く笑う男だと思う。

「そんな事より、体、気持ち悪いだろ? シャワーを浴びて着替えてこい。色々話したいことはあるだろうが、まだ時間はあるんだ。焦ることはない」

「……着替え」

「まさか一人で風呂に入って着替えもできないとかいうのか? 一緒に入った方が良いのか?」

「できる。大丈夫。着替えが、無いと思って」

 琥珀は首を振ると、困ったように眉を寄せた。

「あぁ、それなら部屋のクローゼットに入ってる。適当に買っておいたから、適当に着ると良い」

「……ありがとう」

 白い着物以外の洋服を着るのかと思うと、妙に心が逸った。

 琥珀はこくりと頷くと、急いで部屋に戻り、壁にあった扉を開く。

 そこには色とりどりの洋服がハンガーにかけてあり、その下の棚には、下着などが並んでいた。

 クローゼットの前で暫く悩み、飾り気の少ない群青色のワンピースを手に取る。着替えを持ってリビングに戻ると、「風呂はあっち」と尽が指さすので、言われるままそちらに向かった。


 琥珀のいた隠家は、石造りの湯舟と木製の木桶がある古めかしい風呂だった。しかし尽の家は、真っ白い室内に、真っ白い風呂。おっかなびっくり蛇口をひねると、頭上から温かいお湯が滝のように落ちてきたので、琥珀は小さく悲鳴を上げる。

 驚いて並んでいた洗髪剤のボトルを床に落としてしまい、けたましい音が浴室に響いた。

「大丈夫か?」

 心配になって見に来たのだろう、扉の向こうから尽の声がする。

「だいじょうぶ」

 内心とても慌てていたが何とかそれだけ返すと、納得したのか足音が遠ざかっていった。

 生まれて初めて風呂に入る幼子になってしまったような感覚に陥りながらなんとか風呂をすませると、何故かサイズがぴったりな下着をつけ、洋服に着替えた。

 鏡に映る自分がまるで知らない人間のようで、琥珀は首を傾げる。

 浴室を後にしリビングに戻ると、テーブルの上にパンやコーヒーが並んでいた。

「あぁ、可愛いな琥珀。良く似合う」

 じっくりと琥珀の姿を見た後、尽は穏やかにそう言った。

 何と返していいのか分からず、琥珀は両手で顔を隠す。呪いを解くためにここにきたのだから、浮かれてなどはいけないのだと自分に言い聞かせる。嬉しさや恥ずかしさを感じる自分が、とても滑稽に思えた。

「着物は捨てさせて貰うぞ。あれは贄の衣装だろ、ろくでもない。まぁあれはあれで、似合ってはいるけどな」

「ありがとう、尽。……どうやって返せばいいのか」

「気にするな。好きでやってるし、これからも好きで世話を焼かせてもらう。だから、お前は黙って世話を焼かれていれば良い」

 リビングの中途半端な位置で立ち止まっている琥珀の腰に手を回すと、尽はダイニングテーブルの椅子に座る様に促す。

 礼儀正しく腰かけた琥珀に満足げに目を細めると、自分もその前に座った。

「さぁ、飯にしよう。お前が知りたいことを、ついでに話してやる」

 焼かれたパンの上にバターが溶けて、香ばしい香りが鼻腔を擽る。頂きますと小さく言って、琥珀はそれを千切り口に入れた。

 その甘さに涙が滲んだ。

 尽は琥珀の様子をコーヒーを飲みながらそれとなく眺め、気づかれないように嘆息する。

 そして嫌そうに眉を潜めると、仕方なさそうに切り出した。

「先送りにしたい気分だが、そういう訳にもいかない。大百足と巫のどうしようもなく愚かな昔話をしようか」

 琥珀は彼をまっすぐに見据えて、頷いた。


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