第二部 帝国
失ったもの
天井がある。知らない天井だ。真っ白で平らで、広い……頭がぼんやりと痛い。体を動かそうとすると、左腕全体に鋭い痛みが走った。思わず視線を向けると、そこにあるはずのものがなかった。
声が出ない。目の前のことが信じられなくて、視線を逸らした。目を閉じると自分が疲れているのが感じられて、かといって眠気はやってこなかった。
「起きたんですね」
右足の方角から声がした。そちらのほうを見てみると、エクレムさまが凄く悲しそうな顔をして僕のことを見ていた。
「本当はもっと休ませてあげたいんですけど、ごめんなさい。徴集がかかっています。車椅子を用意するので、一緒に来てください」
横になったまま、周囲を見渡していた。ここは、フェーニャが腕の皮膚を縫ったときと同じ部屋に見えた。
ぼんやりとしているとエクレムさまは側に寄ってきて、僕の体を起こすのを手伝った。左腕の傷口に触れないように気を遣いながら椅子に移される。左腕は二の腕のあたりから包帯がまかれていて、肘くらいのところでなくなっていた。視線を背けた。見なければ、なくなってしまったのだと思わずに済むような気がした。
エクレムさまは僕を、動ける椅子の上に乗せて後ろから押し続けた。段差の続く場所では椅子自体を持ち上げて移動する。エルピスだったら労力をねぎらうところだろうけど、エルフなのだから多分大した力でもないのだろう。どんどん下に潜っていくので少し不安になった。エクレムさまは一言も喋らない。
これから僕は何をさせられるのだろう。多分、フェーニャのことを聞かれるのかな。そういえばヤリャクさんはどうなってるんだろう。彼女のことも話さなきゃいけなくなるかな。せっかくフェーニャが口止めしたのに。いやもう、なるようにしかならないか。
頭が上手く回らない。なんとなくたくさん寝たような気がするのに、疲れが取れていないのは何故だろう。やっぱり受けた傷が深手だったからなのかな……。
気を紛らわすために考え事をしようとしたり、できなかったりしていると、大きな扉の前で立ち止まった。エクレムさまは扉を四回叩いた。中から男性らしき声で「入りなさい」と声がする。扉には中央に二つ、持ち手が並列していて、エクレムさまは片方ずつそれぞれの手で持って奥に押し出した。物珍し気に眺めていると「ああ、エリスにはありませんもんね。観音開きという構造なんですよ」と囁いて教えてくれた。
扉を開き切ると、エクレムさまは僕の後ろに戻って椅子を押した。それから「お連れしました」と通る声で一同に伝える。凄い数のエルフだ。
先日の祝祭のときでもかなり多いほうだったのに、ここにはどうだろう、右手に二、四、六……十人くらい、左手にも同じくらい、二十人くらいのエルフが、細長いテーブルを囲んで座っている。普段こんなにも多くのエルフが居るところを見たことがないからそわそわというか、ぞわぞわした。自分は裁かれるのだという自覚が急激に足元から上ってきたのだ。面子からして僕の知り合いが多いのもそういうことなんだろう。エクレムさまは僕の近くの席に着いたし、オティエノさまもクーリアさまも居る。ヤリャクさまも、強張った顔をしながら座っていた。フェーニャとここに来たときに対応してくれた人は一通り居るようだった。
その上で、一番奥の右側にカンナさまが居たのが余計に緊張させた。ということは反対側らへんに居るのがイサミさまか? なんにせよ確実に、上から二番目の偉いさんを引っ張り出してしまったことがわかって血の気が引いていた。かと言ってここで倒れるわけにもいかなかった。まあ、座ってるから転倒することはないんだけど。
「君が、アルルくんだね?」
カンナさまの向かい側らへんに居た男の人が話しかけてきた。どうしよう答えていいのかな、というか答えないほうが失礼か、というか僕跪くこともお辞儀することもできないけどこれでよかったのかな。
「は、い」
いろいろ考えていたので声が上滑ったけど、なんとか答えられた。発声したのが久々なような気がする。
問いかけてきた男性は、意外にも僕のことを厳しい目では見ていなかった。でもこれは、きっと、哀れみの目で見ていた。責められるよりもつらいような気がする。
「まずは謝ろう。すまない。本当にすまないことをしてしまった。我々が驕らなければこんなことにはならなかった。君が腕を失ったのは我々のせいだ。本当にすまない」
なんだか、違う気がした。何かの感情が湧いてくる感じがあったけど、表面に上手く出てこない。どこかで詰まってしまったような感じがする。でもただ一つわかるのは、彼の言葉に対して「そんなこと言わないでください」とへりくだるのは絶対に違うという確信だった。
しばらく黙り込んでいると、男性は言葉を注ぎ足してきた。
「この状況にびっくりしているみたいだね。まあ無理もないだろう。私はイサミという。君のことはカンナや他の者から聞いているよ。とても気の回る良い子だと聞いていた」
ぞわぞわする。持ち上げた先に何が起こるか知っている。
「それがどうして、いったい何を、君はしたのか、それが知りたい」
部屋は寒くないはずなのに足元が冷える感じがする。その癖心臓の音はうるさい。
なんて言えばいいのだろう、どこから喋ればいいのだろう、こんなことになるなんて考えてなかった。なんて自分は愚かだったんだろう。駄目だ今は絶望している場合じゃない、落ち着け、今僕がなるべきは何だ。今なるべきは何だ。
探しているのに見つからない。おかしい。いつもならすぐに“正解”は見つかったはずなのに。僕はもう良い子じゃない。相手の求めていることをそれなりにかわすにはどうしたらいい。相手の。フェーニャはもう居ない。今居るのはエルフだけ。すべて喋って、そしたら僕はどうなる? 僕はどうなる?
目の前の景色はわかるのに何も見えないような感じがした。エルフたちは僕のことをじっと見つめている。僕はどこも見つめることができずに、ただ考えているような……いや、何かを感じ取ろうとして必死だった。
フェーニャのことを考えていた。もう目の前には居ないのに、なぜだか考え続けていた。不意に自分の中で何かの流れが繋がったような気がして、足元を眺める。それからテーブルの脚、天板、と視線を移して、最後にイサミさまのほうを真っ直ぐに見つめた。ゆっくりと、喋り始める。
「すべてお話します。でも、条件があります」
部屋の中に緊張が走るのが感じられた。でも怖くはなかった。この人たちはこれ以上僕を痛めつけたりはできないから。
「フェーニャを助けさせてください」
さすがに怖い顔をされた。でも多分、この人ができるのはそれだけだ。
「事情はすべて話します。そうすれば僕の言ってることがわかると思います」
圧されずに言葉を続けると「いいだろう、話してみなさい」と許可が下りたので、話すことにした。
フェーニャは異世界からやってきたと語っていたこと。名前が、なんだか長かったこと。体を自由にいじれる超技術、というのを持ち帰ることを目的にしていたこと。国に仕えるのが喜びだと語っていたこと。その顔に虚ろさがあったこと。おそらく拒否することもできずに、子を産めない体にされてしまっていたこと。それから最後に、偽装結婚を持ち掛けたのは僕であったこと。
エルフたちの反応は様々だったけど、最後のことに関しては皆一様にびっくりしていた。イサミさまは最初口元に手を当てつつ考え込みながら聴いていたけど、最後には頭を抱えていて、凄く複雑そうな様子を見せていた。
「君は……その……なんというか……」
もごもごと語られる。
「思ったより得体のしれない子だね?」
罵倒なのか誉め言葉なのか、このくだりで言われるとわからない。多分素直な感想なんだと思う。
エルフたちはざわざわとしていた。どうにも僕とは違う考えで状況を見ているらしい。「まさか本当に地上に人が生き残ってるなんて」「しかも金属文明が生きてるっぽいね」「内密に行おうとしたということは他にも派閥があるな」「任務の目的から考えると、ドゥルーヴをさらったのは失敗だったんじゃないのか。ひょっとしたらすでに彼女の命もないんじゃ……」「いやわからないよ、ドゥルーヴが上手くやってるかもしれない」「そもそも地上はまだ凍ってるはずだ。豊富な資源でもなければ、かなりの投資をした工作員をそうやすやすと殺したりはしないだろう」
めまぐるしく話題が変化していってついていけない。次から次へと知らない概念が出てくるし、なにやら不穏な響きまで出てきてちょっと不安になる。そこで唐突に、力強い男性の声が響いた。
「……フェーニャのフルネームの響きや構成はロシア語じゃないだろうか! 凄いぞ、ロシア語はまだ生きてるらしい!」
「今それどころじゃないでしょ黙って」
「あ」
僕がつぶやくと一斉に皆こちらを見た。動きの統一性に一瞬びっくりするけど、注目させたからには応えなくちゃならない。
「その、名前、で思い出したんですけど、ハルピュイアに襲われたとき、フェーニャがその、本当は撃退させたんですけど……」
皆「そりゃそうだよな」とでも言わんばかりの顔をしていた。少し悲しい。
「そのときに何か脅迫して訊き出そうとしてる感じがあって。ラトンペーツって言ってたんです。フェーニャも繰り返して言っていたから聴きとれたんですけど。何かの名前なのかなって」
ろしあごが云々と言っていたおじさんは一瞬考え込むような顔をしてから目を閉じた。
「ら……は定冠詞かな。ロマンス系の……いや多分フランスか? あの国は寒冷化が始まってからも舵を取ってたよな?」
名前に食いつきのいいおじさんは隣の女性に声をかけた。女性はうなずくと「私たちが知ってるのとあんまり変わらなければ、今もあの国はわりと権力があるほうだと思う」と私見を語った。
おじさんは僕のほうを見て、嬉しそうだった顔を少し引き締め直して話しかけた。
「君が言ってくれたことは非常に重要な情報だよ。おそらく他にも知っていることはあるだろうが……それは辞書でも引きながらじっくり教えてもらおう」
それから咳ばらいをして、こう付け加えた。
「定冠詞が付いてるということは普通の人名じゃないかもしれないね。所属している組織の名前か、あるいは何かの企画名か。フェーニャは重要な情報を訊き出せていたのだと思うよ」
私が今推測できるのはこれくらいだ、と謙遜した風に言葉を終えたけど、彼は凄く誇らしそうだった。前にオティエノさんが微妙な立場らしいことを語っていたけど、この人も多分微妙な立場だったのだろう。
「どうでもいいけど、なんでさっきからフェーニャちゃんのこと呼び捨てなの?」
さっき私見を述べてた隣の女性が不意に突っかかった。
「よく聞いてくれたね! そもそもフェーニャというのはあだ名のようなもので、つまり元からちゃんとかさんがついているようなものだから……」
「あーそういうね、そういうのは後でアルルくんに語って」
振っておいて結構ぞんざいに切り捨てられている。おじさんは少ししょんぼりとしていた。というか僕が聞くのか……まあ彼にフェーニャの言っていたことを喋るとなると、自然に語りを聞かされることになりそうだ。
女性がぶった切ったあとすぐに、イサミさまが部屋の中全員に向けて話しかけた。
「ロウ、君の知識は実に参考になるが、込み入ったことを掘り下げるのは後にしてくれ。あとロウに限らず学者諸君に告ぐが、君たちは自分の専門のことになるとすぐに熱が入ってしまうね。それは決して悪いことではないが、今に関していえば控えておいてほしい。そうだ、紙を配ろう。ズーハオ、皆に紙とペンを用意してくれないか。みんな、報告書なんて形にしなくていいから走り書きを書いてくれ。そのまま提出してくれてもいいし、持ち帰って考えを掘り下げてから私に伝えてくれても構わない」
イサミさまは奥に座っていた人に頼んだようだった。もっと偉い人なのかと思ったら、どうやら手伝いをしやすくするために近くにいるような感じらしい。手元に書きつけていた白い薄っぺらいものを置いて、近くに束になっていたものに手を付けた。枚数を適当に数えてから、イサミさまと向かいの人に手渡した。
「人数分のペンを持ってきます。回していてください」
そう言ってズーハオさまは一度退出した。そのうちに僕のほうにも白いのが回ってきたけど「僕は読み書きはできないので……」と小さくつぶやくと、回してきた人は「あ」というような顔をした。
「アルルさん、余っていれば私にくれませんか? 最初に落ちてきた岩のことで思い出したことがあるので」
少し遠くからオティエノさまの声がした。ちょっぴり救われる。オティエノさまのほうに滑らせると「ありがとう」と声が返ってきて、優しい人だと実感した。
そのうちにすぐ、ズーハオさまは戻ってきた。僕のところに白いのがないのを認めると、僕の両隣からペンを回し始めた。オティエノさまやロウさまは常に持ち歩いているのか、受け取らずに隣に回している。そういう人は他にも何人か居た。その人たちも学者さんなのだろうか。
配られているペンは、僕が知ってるペンよりずいぶん凝ったやつに見えた。僕らのとこで使うペンは硬いものの先を少し尖らせたもの全般のことを指すから、細かい部品が使われてるっぽいものは珍しい感じがした。
やることがないので様子をただ眺めている。ここには読み書きができる人しかいないのか。凄いな。書けなくても別に困ったことはないけど、さっきイサミさまが言ったみたいに考えを深めるのには凄く便利そうだ。このときだけは、ちょっとうらやましいような気もした。
「さて、中断してしまったね。話を続けようか。つまり君は、こういいたいんだね? フェーニャさんも被害者であると」
穏やかそうな顔をしていながら、声の響きには緊張感があった。
「認められないでしょうか」
「どうだろう、微妙なところではあるね。君の言っていることは信じたいのだけど、残念ながら、君の言ってることすべてが本当であるという証拠はないから」
嘘なんて言ってないのに。でも別に傷つかなかった。むしろ少し安心したような気もあった。なぜだろう。
「もしも仮に僕の言うことが嘘だったとして、自分のお嫁さんを取り戻したいと必死になることはおかしなことでしょうか」
「偽装結婚だったのだろう?」
「だとしても大事な人になったことには変わりないです」
エクレムさまがハラハラとした面持ちでこちらを眺めていた。他のエルフも緊張した顔で様子を伺っている。
「……考えておこう」
息を吐いてから、イサミさまは言葉を返した。
まだ決定的になってないということは全部のことは話せないな。ヤリャクさまのことはどうしようか。いや、黙っていることを条件にしてイサミさまを説得するよう持ち掛けたほうがいいのか……
そこまで考えかけてぞっとした。こんなこと、許されるわけがない。自分はなんてことを考えていたんだ。でも、フェーニャを、フェーニャを取り戻すためなら。
自分の残酷さと向き合うのは後にしよう。とりあえず、フェーニャが鳥を操ったことはまだ黙っておくべきか。
訊かれてばっかりだったから、今度はこっちから訊くことにしようと思った。そもそもにこの人たちはフェーニャがどこから来てどこに行ったのか予想がついてるような様子だし。フェーニャのことなら、僕だって少しは知っておきたい。本当は本人から訊けたら一番だったのだけど、今僕が知れる手段は、この人たちから訊くことしかないから。
「フェーニャを助けることに賛同してくれないなら、これ以上のことは、今はお教えできません」
また空気がざわついた。エクレムさまが僕よりもこわごわとした顔をしている。
「ですが、なぜ反対なさるのか、その理由を――具体的に言うと、フェーニャのことで知っていることを教えてくれれば、もう少しだけお話します」
イサミさまの顔を真っ直ぐに見つめていた。なんとなく、フェーニャがヤリャクさまに交渉したときのことを思い出す。エルフも人間なのだから、怯えた様子を見せずに屹然としていれば、上手くいく可能性が上がるのかもしれない。
イサミさまはすぐに答えを出すんじゃないかと思っていたけど、予想外に長いこと考え込んでいた。内心意外に思いながらも見つめ続けると、周囲がざわざわし始める。
「まさか話すおつもりですか?」「この子はエルピスですよ?」「いやでも、もうこの子は見てしまったじゃないか、ここ以外の文明を」「語られるのも致し方なしか……」「駄目です、やめてください、受け入れられるわけがないです!」「エクレム、落ち着け。そんなことはイサミさまが一番よくわかっている」
どういうことなんだろう。僕はフェーニャのことで知ってることを教えてと言ったのに、なぜエルフが自分ごとのように怖がってるんだ。疑問に思っている中、女性の透き通った声が響いた。
「そんなことはないでしょう、アルルさんが受け止められる可能性だってあるはずですよ」
そう語るクーリアさまは、希望を抱いた内容のわりに怯えたような顔をしていた。こんな顔をしているのは見たことがない。クーリアさまは調理台の職人だから、よっぽど緊張する面にだって立ち合ってるはずなのに。
エルフたちのざわめきが急速に落ち着いた。イサミさまが大きなため息をしたからだ。いよいよ決断が下されるのだろう。もしも駄目だったら、次はどういう手に出ようか。
「わかった。すべて話そう」
空気が凍り付いた。ある者は驚き慄いて、ある者は絶望に近い顔をして、ある者は顔に悲しみをたたえていた。
「ただ、長い話になる。最後まで聞いて、もしそれでも我々の力を借りて助けに行きたかったら、もう一度考慮する」
そう言ってイサミさまは顔の前で手を組んだ。陰鬱そうな顔をして目を伏せている。
「ズーハオ、投影機の準備を」
隣に座っていたズーハオさまは納得していなさそうな顔をしていたけど、それでも言うことに従って何かの準備をし始めた。
「今から語るのは、我々エルピスが語り継いできた歴史だ。いくら長命と言えども直接見たわけではないから、我々自身、あまり真相に強い関心を抱いてなかったのだが……」
そう語りかけたところで一部のエルフがむっとした顔になったのを見たらしい。
「ああそうだな、学者連中はそんなことはなかったよ。ともかく我々は、実際確認したりはしなかった。できなかったんだ」
それからイサミさまはとうとうと語り始めた。エルフの神話の裏側にあった、エルピスの歴史を。
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