第一部 カリャード

ようこそ、この世界へ

 天井がある。知らない天井だ。薄暗くて球状でいて、狭い……頭がぼんやりと痛い。こめかみのほうに手をやろうとしたところで、気が付いた。四肢がベッドに拘束されている。

「……嘘でしょ」

 なんて出だしなんだ。最悪だ。想定よりずっと警戒心の強い種族だったのかもしれない。やっぱり数日は身を隠しておくんだった。いや、本当はそうするつもりだったのに、できなかったんだ。

 とにかく脱出しなくてはならない。手首の拘束をみやって、結びが緩いのを確かめてから、一気に腕を振り上げた。がた、と音が鳴って、その大きさに一瞬驚いたけど、動きは止めなかった。拘束されたまま先手を打たれるなんてことがあったら、最悪すぎる!

「ん? 起きたの?」

 能天気な声が聞こえた。一時的に動きを止める。足音がする。心臓の音が速くて、正確なテンポに自信がないけど、おそらく向こうは私のことを警戒していない。今から来るやつがどんなやつか、確かめないと……。

 深呼吸を一つして、ゆっくりと、顔を右側に向けた。そこには、まだ成長期を終えていないような青年がいた。

「そんなに怖い顔しないでよ、君を縛ったのに悪意はないからさ。今ほどくね」

 のんびりとした口調、悪意はないというセリフの通りに、敵意の感じられない丁寧な手つきでほどいていく。はじめは右手、それから左手の――それがほどかれた瞬間、青年の腕をつかんで上半身を引き寄せた。驚いて力が抜けた拍子をついて腕を首に回して、軽く絞める。苦しいと思うだろうくらいに。

「なっ……」

「悪いけど信じられない。声を出すな、じっとしろ」

 右腕で首を絞めながら、上半身を徐々に足元に寄せる。まずは左足をほどく。片手だけだから時間がかかるかと思ったけど、私が思っていた以上に結び目は緩くて、拘束するという意図をあまり感じられなかった。右足のほうは姿勢がきついこともあってか少し時間がかかったが、ほどいている間青年がじっとしていたこともあってなんとか無事にほどくことができた。

「今から言うことに従え。抵抗しなければ殺したりしない」

「わかった」

 食い気味の応答だった。物わかりの良い青年のようだ。声に緊張は含まれているが、混乱まではしていないようだった。

「ここはどこだ」

「カリャードの最高層、エルピスの街エリスの外れの民家だ」

「な、んだ、これは……!」

 回答についての驚きじゃあなかった。答えを聞いている間に私の体は宙に浮き始めていたのだ。腰から引き上げられるように、ゆっくりとした速度で。

「だから言ったでしょ、悪気はなかったんだよ。君がそういう体質じゃなかったら、僕らも縛ったりしていない」

 呆れを含んだセリフが耳に響いた。若干の思考停止に陥る私に彼は「ほら、僕につかまってていいから、宙を蹴りなよ」と呼びかけてくる。言われるままに宙を蹴ると、どうにか体は床に近づいて、私は地に立ったていを保つことに成功した。

「君って天使じゃないっぽいね」

「は?」

 何を言ってるんだろう。というかこいつには緊張感がないのか、まだ首は絞められたままだというのに。声は喉が詰まった響きをしているのに、青年の様子は呑気なものだった。

「母さんとか、兄弟たちが言ってたんだよ。僕が君を見つけたとき、君は空に飛んで行ってしまう途中だった」

 それはまずかった。本当ならこいつには礼を言わなくてはならないのかもしれない。

「空から来る美しい人のことを天使って言うんだろ、だから天使かもしれないって騒がれたよ。ようやく神の許しが降りたのかもしれないとかって」

「神の許し……?」

 わからない。空飛ぶ人間を天の使いだと思うところまでは理解できるが、そのあとの内容は聞いたことがなかった。審判の日とも近い気がするが、おそらくそれとは違ったものなんだろう。

「知らないの? 昔話じゃ神様の天罰で僕らは地上に落とされたって言うじゃないか」

 どうやら聞いていた以上に私の知らないことが多いようだ。

「知らない。聞け。私のペースに合わせろ」

 言いながら首の締め具合を上げたら黙ったので、一呼吸おいて続けることにした。

「私は別の世界から来た」

「別のせかい?」

「こことは違う場所にも人間が居るということだ。私の話を黙って聞け。いい加減にしないと本当に首の骨を折る。お前が扱いづらいやつならお前の家族に『協力』してもらう」

「それはやめて、わかった、黙るから」

 じっとしたのを腕の中で感じながら、周囲を見渡した。私が持ってきたはずの荷物がない。

「私の荷物はどこにある。答えろ」

「僕が隠した」

「何……?」

 冗談じゃない、あの中のものがないと、託された使命を果たすのが絶望的になる。

「お前、どういうつもりだ」

「エルピスの神話じゃ神は争い殺しあうものを許さないんだよ。あれは人を殺したりできるものだろ」

 唾をのんだのか、青年は一呼吸間を開けた。「悪いけどあれはこの街には持ち込めない」

 まずいな……しかし、この青年は使えるんじゃないだろうか。そもそも武器は一見それとわからないように細工をしたり、隠したりするようなかたちでしか保管していない。それを発見できたということは器用さがあるということだ。加えてこの状況で自分のペースで応答をしてくる図太さもなかなか見かけないもののように思う。それに私がこの世界に降りたのは深夜のはずだ。その時間に発見をしたということは夜間の行動ができる人間の可能性が高い。

「私には使命があってここに来た。ここには身体を自由にいじれる超技術を持った一族が居ると聞いている。心当たりはあるか。答えろ」

 言ってから、首を絞めるのを少し緩めた。

「体をいじれるってのに聞き覚えはないけど……凄い身体能力を持ったやつらならいるよ。あいつら不死身なんじゃないかって言われてる。たまに噂が出るんだよ、死んだはずのところをみたのに死んでなかったって」

「不死身の一族……」

 想定していたのとは違ったが、もし獲得できる技術なら、ぜひとも持ち帰りたい類のものだ。

「私の使命は、超技術を持ち帰ることだ。そのためにはこの土地について詳しいものの案内があるのが好ましい」

「もっ……。」

 何か話しかけたが、喋るなという禁を思い出したらしく一音で押しとどまった。

「喋っていい」

「持ち帰るだけ? 殺したりしない?」

「殺すなという指示は出ていない。けど、無闇に殺すことのほうが大体の展開は面倒になる。なるべく殺しはしないつもりだ」

「そっか……よかった……」

 別にこいつの状況は何もよくなってはないのだが、安心したらしい彼の息の音が感じられた。

「それで僕が何をしたら『なるべく』じゃなくて『絶対』になるの?」

 こいつは頭の回転が速いようだ。話が早くて助かるなと感じた。そもそもに体が浮いて姿勢を立て直してから今まで、ずっと突っ立ったまま首を絞めている。この現場を誰かに見られるのもまた面倒なので、早く終わらせて次の状況に移りたい気持ちでいっぱいだった。

「やってもらうのは一つじゃない。まずこの土地の文化について教えろ。そして私が土地の人間に受け入れられるようサポートをしろ」

「結構多いね」

「まだある。最後まで聞け。喋るなと言ったのを忘れたのか」

「さっき喋っていいって言ったじゃないか」

「じゃあ黙れ。あとは技術をもつ種族について教えろ。そしたらお前の種族は絶対に殺さないと誓ってやる」

 青年が大きく息を吸ったのが伝わった。しかしその流れのまま返事はなく、黙ったままだった。

「……ああ、」そうだった。こいつは頭が固いんだった。「喋っていいぞ。答えろ」

「エルフたちは、その、不死身っぽい種族は、殺すこともあるってことなの?」

「最終的な犠牲を減らすためにそういう選択をすることはあるだろう」

「どうしても?」

「貴様の種族は殺さない。これが妥協点だ」

 それきり青年は黙ってしまった。あんまり長引かれるのは困る。そう感じた長い五秒のあとに彼は、「断る」と返事をした。

「何だと?」

「悪いけどその条件は呑めない、僕のやることが多すぎるし、エルフたちが不死身ってのも噂だけなんだよ。ちゃんと世代交代してるみたいだし、族長とかが死ぬと僕らの族長も葬儀に出るんだ。だから彼らも死ぬ存在だってことは皆に知られてる」

 そこで彼は一息をついた。

 自らの種族だけじゃなく他の種族までいたわるとは救えない。貴重な人材をなくすのは惜しいが仕方ないかと思って腕に力を入れかけたとき、彼の喉が震えるのを感じた。

「でも僕と結婚してくれるならその条件を呑んでもいいよ」

「あぁ?」

 思わず低い声が出た。なんだこいつ。やっぱり殺したほうがいいかもしれない。こんなやつに使命を話してしまったのはまずかった気がする。ちょっと頭がおかしい。

 少し、ほんの少しの間呆然としている隙に、青年は続きを語り始めた。

「別に君が欲しいわけじゃないよ。僕は男やもめになりたいんだ。そろそろ結婚しろって周りがしつこいんだけど、僕は独りでいたいの。できれば一生。だから君に協力して、君がさくっと元の世界に戻って、死んだことになったら周りはひとまず言わなくなるよね」

 正直ドン引きしている。五秒の沈黙はこれを考えていたのか。偽装結婚のアイデア自体はわからなくもないのだが、余所から現れた得体のしれない女にいきなり持ちかけることに引いていた。

「君は美人だってみんなが言ってたから、君のことが忘れられないって言っとけばたぶん一生独りでいられると思うんだよね。こういうことなんだけど、君としてはどう? 周りに人がいるときだけ恋人のフリをすればあの条件を変えなくていいから、わりといいと思うよ」

 少しの間、恐いやつだと感じ入っていた。そしてこの青年に近いものを感じる上官が、凄まじい速度で出世をしていることを思い出していた。目的意識があれば、おそらくとても有能なのだろう。

「わかった。条件を引き受ける」

 そう言って私は、腕をほどいた。その拍子にまたわずかにバランスを崩して、腰から吊り上げられるように体が浮いていく。

「ありがとう」

 彼はすぐには気付かなかったようだが、私から反応がなかったのを感じて振り向いて、それから納得したような顔をした。

「慣れるまで僕の腕につかまってていいよ、ほら」

 そう言って差し出された左腕に非常な屈辱を感じたけど、どうしようもなかった。浮き上がったところから地上近くまで行って体勢を立て直すのは別に大したことじゃない。でも一歩進むたびにそれをやっていてはキリがなかった。大人しく右手でつかんで、そのまま腕を絡める。つくづく凄い屈辱だ。なんで私がこんな、旧時代の女みたいな真似をしなくてはならないのか。

 それも覚悟して来たはずなのに、実際出だしから強いられてしまうと、自分の不甲斐なさやら状況に対する憎さやらで胸が苦しかった。

「別に床近くを飛んだままでもいいんだけど、ちょっと行儀悪いしなあ……怪我しててうまく動けないって言っとけばいいよ」

「どういうことだ? 行儀悪いって」

「え? 確かに言われてみればなんで行儀悪いんだろ……みんながやっちゃうと幅取るからかな……万が一下に落ちたとき大変だから? ごめんわかんない、こんど村長に訊いてくる」

「いやそこまでしなくていい……」

 とりあえず人前で飛ぶのはやめよう。でも三次元的な動きは訓練しておきたいから深夜あたりにでも抜け出すか。そこまで考えてから、気が付いた。

「いや待て、この世界では人間はみんな空を飛べるのか?」

「そうだけど……君のせかいでは違ったの?」

 答えなかった。余計なことを知らせるつもりはなかったからだ。まいったな……昔話の話といい、私が想像していたのとだいぶ状況が違う。

 黙り込んだ私を見て、彼は追及することもなく「とりあえず何か食べに行こうか」と言い出した。

「案内ついでに食事場に行くこともできるけど、どうする? まだ体の状態がよくないならここまで持ってきてもいいけど」

「案内してくれ」

 外に出かけるらしいほうを選択することにした。私には時間がないのだから、一刻も早く情報収集できるほうを選ぶしかない。コンディションがいい状態でことが運ぶことなんて元からそうそうないのだ。

「わかった、じゃあしっかりつかまっててね」

 そう言って彼は扉らしいほうに向かっていく。私は一歩一歩、事実として、跳ねるような足取りで彼の速度についていった。

 扉は厚手の皮で出来ているようだった。壁から伸びている木の実のような装飾に、皮に結びつけられた紐をひっかけて結ぶことによって留めているらしい。彼は何周か紐が巻かれてるのを解いて、それから扉を横に引き上げた。カーテンのような使い方をしてるらしい。

「僕の後ろについてきて」

 そう言って青年は歩き出したが、私は動くことができなかった。彼と組んでいた右腕が、解ける。

 視線が空に上がる。蒼空には緑のツタが張り巡らされ、私たちが居たのと同じつくりだろう半球の家が、点々とツタの『道』の上に建っている。半球の家もまたツタとそれに類する植物によって作られているようだった。

 それから私は下を見た。家の下にも同じようにツタの道が延々と張り巡らされている。下のほうになるにつれ暗くなっていき、底は黒に染まって見えなかった。ツタの道は細く、移動するためというよりは、ここが道だと示すためだけにあるかのようだった。

 ぞっとしていた。落ちてしまったらどうしようと。私が居たところでは、何の仕組みもなしに人間が空を飛ぶなんてことはありえないのだ。

「どうしたの?」

 固まってしまった私を気遣ってか、青年は振り向いて、私の視線に合わせてかがんで上目遣いに話しかけてきた。視界に入った彼の表情がやわらかいのはわかったが、私の視線は足元の黒い闇から外せない。

「大丈夫だよ、さっきみたいに飛べばいいんだ」

 言ってから、左手をしっかりと私の右手に絡ませて、握りこんだ。

「落ちたりしない、僕が支えるから、ね」

 頭ではわかってる。ああ、頭ではわかってるんだ。思い出せ。私はエリートなんだ。私にしか使命は果たせないんだ。そう言い聞かせながら、一度目を閉じる。

 意識して深く息を吸った。それから目を開けて、一歩を踏み出した。思ったより勢いよく踏み込んでしまったようで、一歩の反動で私は空へと浮き上がっていった。

「う、わ」

「大丈夫大丈夫、飛んでるだけだから、大丈夫だよ」

 完全にあやされている。これも屈辱だけどもう言ってる場合じゃないので仕方ない。右手を握りこんで、左腕の動きでどうにか舵をとった。今度は体が前に出すぎて、青年が私の後ろにいってしまった。ああ、地面が欲しい!

「おい右腕をこっちによこせ!」

「ん? はい」

 じたばたする私に向けて、青年は右腕を差し出してきた。向かい合って、まず左手で彼の右手首をつかんでから、握りこんでたほうの右手を離して、両手でしがみついた。後ろを振り返って進行方向を確認し直して、姿勢を整えながら、最終的には右手で彼の右手首をつかむように体勢を変えることにした。

 一度深呼吸をして、前を見据えた。道なりに進めば、小さな広場のような場所に出るようになっているみたいだ。

「とりあえずあそこまで進めばいいんだな?」

「うん、とりあえずそこまで行こうか」

 青年の表情は見えなかったけど、少し呆れられているような気がして悔しい。

 落ち着け、誰だって急に空が飛べたら怖いに決まってる、むしろ私はまだなんとかなってるほうのはずだ。でないとあれだけ訓練してもらった示しがつかない。

 散々言い聞かせたけど、結局その日は小さな広場に向かうだけで限界で、帰りはほとんど青年に抱えられて戻ってしまった。というのも目覚めたのが遅かったみたいで、私が着いてしばらくじっとしていたらすぐに、あたりが暗くなってしまったからだ。


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