Episode 8


 菜々子は翔馬の痛々しい姿を、なすすべもなくはじめは遠巻きに見るより他ないのかとも思っていたらしい。


 それでも、


「俺…やっぱり三次元の子を好きになったらダメなのかな」


 ポツリと言ったまま瞼を閉じると、翔馬の目から一筋の涙が伝い落ちていく。


「いつか、ちゃんとあらわれますから」


「いや…もう二次元だけでいい。仮に綱島が彼女なんかなってみろ、今度は綱島までいなくなる」


 それこそ耐えられない──翔馬は学生時代から、少し風変わりながら頭の回転は早く、それで菜々子も幾度となく助けられてきた。


 それだけに翔馬は見切るのも早く、逆に諦めも早い。


 そのためもう少し頑張れば結果が出るのに、止めてしまうところがある。


 したたかに痛飲した翔馬は、気づけば眠ってしまい、


「…しょうがないな」


 呼んでもらったタクシーの運転手の手も煩わせながら、川崎新町までつく頃には、すでに日付も変わっていた。




 翔馬を送ったまでは良いのだが、このまま帰る気になれなかった菜々子は、そのまま翔馬が眠るソファの脇でぼんやりスマートフォンを触りながら過ごしていたが、やがて伏せて眠っていたらしい。


「…綱島、帰らなかったのか」


 起きた翔馬は菜々子の寝顔を初めて見た。


「そういや、いつもそばにいてくれたんだよな…」


 窓に目をやると夜明けが近い。


「綱島のために、頑張ってみるか」


 菜々子が眠そうに目をこすりながら起き出した。


「先輩おはよ」


 運ぶの大変だったんですから──菜々子のセリフを、翔馬は唇で塞いだ。


「…いつもゴメンな」


「急にどうしたんですか?」


「俺、綱島…いや菜々子のために、もう少し頑張ってみる」


 初めて名前で呼び捨てにされたので菜々子はちょっぴり驚いたが、


「…私はずっと待ってたんですよ」


 待たせたんだから頑張ってくれなきゃ困ります──菜々子は、翔馬の背に腕を回すように抱き締めてから、


「私は運転しないから、事故でいなくなることはないですよ」


 菜々子なりの、情愛の示し方であったのかも知れない。




 翔馬と付き合い始めた菜々子は、コンパニオンの仕事を辞めた。


 六角橋のマンションも引き払った。


 翔馬の部屋へ移り住むと、近所のスーパーのパートを見つけて働き始め、


「あ、翔馬さんお帰り」


 翔馬も早く帰るようになった。


「あれ? 辻さんは?」


 光は営業部に翔馬の姿がないのを訝ったが、


「今日は茅ヶ崎から直帰だそうです」


「そう…」


 光は翔馬が遠くなってゆくようで、何となく一抹の寂しさを感じたらしい。




 飛び込みから法人向けのルート回りに変わっても、翔馬の手堅い仕事は変わらず、


「今回の担当、辻さんでお願いできませんか?」


 と指名してくる顧客もある。


「辻主任もそろそろ課長ですかね」


 と、課長の内定を打診されるようになった、菜々子の誕生日が近づいた夜、翔馬は夕飯の洗い物をする菜々子を呼んだ。


「菜々子に一つだけ頼みがある」


 そう言って、翔馬は一枚の書類を取り出した。


「婚姻届」


 という文字が見えた途端、菜々子は顔を覆って泣き出してしまった。


「…こんな私なんかで、いいの?」


 もともと半分コールガールみたいなことしてたコンパニオンだよ、と菜々子は引け目を感じていたらしい。


 翔馬は淡々とした口ぶりで、


「そんな些末なことは、俺の眼中にはない」


「でも…」


「待たせたんだから、このぐらいのけじめはつけさせてくれ」


「…ありがと、翔馬さん」


 菜々子に寄り添うと、翔馬は菜々子が泣き止むまで、菜々子の長い黒髪を撫でた。


「菜々子って、いい香りするのな」


 翔馬の脳裡から、さとみや希のことが頭から消えることはなかったが、目の前の菜々子がいてくれる限り、かけがえのない人が消えてしまう恐怖からは、少なくとも逃れることは出来た。


 菜々子の誕生日の朝、婚姻届は出された。


 入籍した翔馬は、菜々子が思わず驚いた行動を取った。


 あれだけ集めていたアニメのグッズを、ほとんど売り払ってしまったのである。


「せめて少しは残したほうが…」


「俺には菜々子がいる。もうこの子たちは、うちにいるべきではない」


 そう言うと惜し気もなく専門の業者を呼んで査定を頼んで、そのほとんどを手放してしまった。


「かなりレア物がありますけど、どこで手に入れたんですか?」


 などと業者に訊かれる始末で、


「仕事が営業なんで、まぁコネですかね」


 とだけ、はぐらかしておいた。


 そこそこのまとまった金額になったので、


「これで指輪を買う」


 二人は安い指輪しかしていなかったのだが、


「私は指輪なんかより、翔馬さんと一緒にいられたら何にもいらないよ」


 結局何を買うかは決まらなかったので、とりあえず万が一に備える預金に回ることになった。


 仕事のこともあったので、翔馬と菜々子は小さな挙式と写真だけは撮った。


 保険の扶養の手続きがあるので、会社に報告だけは済ませてあったが、大々的に言うものでもないので、ひっそりとあとは過ごしていたのだが、


「…ちょっと辻さん」


 後ろ袈裟で斬るような言い方で、光から声をかけられた。


「結婚、したんですって?」


「えぇ」


 翔馬はもはや、ありとあらゆる意味で光の下僕なんかではなくなっていたらしい。


「一体誰が辻翔馬を射止めたんだって、社内の女子はみなさん話題にしてましてよ」


「相手は大学の後輩です」


 後輩では仕方ないか、というような顔をした光は、


「…おしあわせに」


 とだけ告げると立ち去った。




 しばらくして、翔馬と菜々子は光に弘明寺まで招待された。


「私のフィアンセを紹介します」


 というのであらわれたのは、高そうなスーツをパリッと着こなした、秀麗な顔立ちの青年である。


「留学時代に知り合った」


 という青年と、六月には挙式をするのだという。


「あなた方は式は?」


「うちらは写真だけにしました」


「…何か辻さんらしいわね」


 一頻り世間話をして、二人は光の家を出た。


「…あ、桜」


 菜々子はシンボルの普賢象を見上げた。


「うちらのしあわせってさ、きっとこうやって一緒に花を見たり弁当食べたり、そんな感じなんだと思う」


 しばらく翔馬と菜々子は散り降る桜を眺めていた。


 が、


「帰ろっか」


「うん」


 翔馬と菜々子は駅へ続く坂道を、手を繋いで降りていった。





【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛が呼ぶほうへ。 英 蝶眠 @Choumin_Hanabusa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説