Episode 5
夜来の雨が止んだ日曜日の朝、翔馬はアパートの駐輪場にカバーをかけて停めてあったCD125というクラシカルなバイクを久しぶりに出して、エンジンをかけてみた。
何度かキックペダルを踏み下ろしたらすぐにかかったので、簡単な身支度を整えて、川崎大師まで軽く転がしてみたのだが、
「…懐かしいなあ」
光が入社する前ぐらいまでは頻繁に乗っていたが、このところはバタバタしていて乗っていなかったので、少しバッテリーに難はあったが、遠乗りを駆ければ何とかなりそうではある。
「たまには一人も悪くないか」
一旦戻ってから、翔馬は手袋だのブルゾンだの出して着てみた。
「…よし、行くか」
翔馬はスロットルを開いた。
最初は少しぎこちなかったクラッチペダルの捌き方も、慣れてくると体が思い出したようで、
「今度から通勤でも使うか」
次の春から営業に配属が変わる。
浦賀までこの日は遠乗りをかけ、海でぼんやりとしていた。
夕方に川崎新町まで戻ってスマートフォンを開くと、菜々子からメッセージが来ていた。
つい数分前なので返した。
すぐ返事が来た。
「綱島の家、確か六角橋だったよな?」
「うん」
「ひさびさにバイク乗っててさ。今から行く」
「また前みたいに、後ろに乗せてもらっていいですか?」
「タンデムぐらいなら良いよ」
その足で翔馬は六角橋を目指した。
六角橋のアーケードの入り口で菜々子と待ち合わせると、予備のヘルメットを菜々子に渡し、
「…何か終電逃したときのことを思い出すなぁ」
菜々子がまだ西鎌倉の実家にいた頃、終電に間に合わなかったときには、キャンパスから近かった翔馬がタンデムで送ったことがあった。
「あの頃、さとみ先輩が羨ましかったなぁ」
リアシートに座った菜々子は言った。
「さとみ…か。いなくなってから、何年だっけ?」
「まだ翔馬先輩が卒業してすぐだから、八年ぐらいかな?」
翔馬は鎌倉街道を目指していた。
さとみには迷惑ばっかりかけてたし、と翔馬は、
「だからあいつがいなくなったあと、さすがに引きずっちゃってさ」
菜々子は翔馬の腰に腕を回し、
「私、実はずっと先輩のこと好きだったんです」
「…えっ」
「だけど今は、想いが叶わなくたって、ずっとそばでいられたらいいやって」
「綱島…」
「だからこないだのパーティーのとき、あんなこと言われてすごく悲しかった。でも、さとみ先輩のこともあったから、私…怒れなかった」
坂を下ると、海が見えてくる。
「ホントは先輩は優しくて、情に厚くて、男らしいところもあって。だからさとみ先輩が羨ましかった」
菜々子は翔馬に強くしがみついた。
「…私からは、先輩から離れたり消えたりしないんで、安心して下さいね」
菜々子は共にいるだけで満足であったようである。
菜々子を六角橋まで送り届けたあと、川崎新町まで再び帰ると、黒塗りの車があった。
中では光が待っていて、
「翔馬ってバイク乗るの?」
そういえば通勤にはしばらく使っていなかったので、光は知らなかったらしい。
「…誰かとデート?」
「大学の後輩に相談があってね」
「その後輩、もしかして女の子じゃなくって?」
光は核心をつくのが上手い。
「だって、香りが」
菜々子のフレグランスの匂いか何かで分かるようである。
「あなたはただの女たらしですか?」
「…ずいぶん嫉妬深いんですね、光お嬢さま」
翔馬は平静なままである。
「なっ、何を急に…」
光はうろたえた。
翔馬はいつもの沈着なまま、
「懐かしい後輩と思い出話をしに行くのにも、いちいちお嬢さまは許しが要るんですね」
鼻で翔馬は笑ってから、
「少なくとも、俺の昔の彼女はそんなことでは妬かなかったなぁ」
光は表情が固まった。
「自分の悪口は言わせておくさ。でも仲間を悪く言うのは、堪忍なり難いんだよ」
翔馬は光の腕を掴むと半ば引っ張りこむように階段を駆け上がって、部屋まで連れ込み、強引に床へ押し倒した。
馬乗りになると、腕を抑え込んだ。
恐怖のあまり光は声も出せず、このまま翔馬に犯されてしまうような恐ろしさを覚えたが、
「…あまり、怒らせるな」
穏やかなままの翔馬は力を緩めた。
「翔馬…ごめん」
「光お嬢さまはきっと、命がけの恋愛ってしたことがないんだろうなって」
光は翔馬に射竦められたように見抜かれていた。
「きっと、言っても分かってもらえないのかなって」
寄る辺のない顔つきをされ、光は組み敷かれたまま涙ぐんでいた。
「ごめん…傷つけてばかりで」
「それはいいさ」
翔馬は腕をほどいた。
しかし腕はほどいたものの、光に馬乗りになったまま、
「俺は誰も怒りたくないし、誰とも戦いたくもないし、争いたくもない。だからこれ以上、逆撫でするのは…やめてもらえないかな」
それまで光が見たこともなかった、悲し気な色のこもった目で翔馬は言った。
「ましてや感情に任せて女を襲うなんて、そんなのは野獣のすることで、俺がするべきものではない」
そこで初めて、組み敷いていた
「…悪かったな」
髪を撫でた。
この優しい挙措があるから、いわゆる恋愛のスイッチの入った状態になってしまうのでは──光は抱き締められながら感じていた。
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