Episode 4
そこへ再び、光があらわれた。
「どなたかとお話?」
「大学の後輩で、今仕事転職するかどうかで互いにいろいろ話していて」
光は転職、というワードに食いついた。
「それはどういうこと?!」
「だって、ライバル企業のお嬢さまとキスとか寝たりとかしてる間柄ですからね。産業スパイと疑われたって仕方がない。だったらこっちだって、それなりの覚悟をしなきゃならない」
次々と威力のある単語を出した。
「…それは」
「だから、こちらから辞めるつもりでいます」
そのほうが光お嬢さまに累が及ばないでしょうから、と翔馬は殻を割ったような言い方をした。
「それでは昼休み終わるんで」
光を置き去りにすると、そのまま翔馬は屋上を降りて行った。
勤務終わりに本社を出ようとした翔馬を、
「ちょっと待って!」
光が取りすがるように駆けてきた。
「大切な話があるの」
光は普段みずからの通勤用に使っている、運転手つきの黒塗りの外国車に翔馬を乗せた。
「今日はこれから時間ある?」
いつもの
「録画したアニメ見ながら晩飯食べて寝るだけです」
文句あるのか、といわんばかりの不満をわざと露骨に出して言った。
「…じゃあ、一緒に食べましょう」
「金ないですよ」
「わたくしが、あなたの家へ行くの」
「いきなり?!」
「一人暮らしの男子の部屋、行ったことないの」
「掃除してないし…」
「気にしないで。…すぐ帰りますから」
運転手に指示を出して、車を向かわせた。
翔馬のアパートは少し古い。
川崎新町の駅からそばの、二階にある翔馬の部屋は東向きで、小さな天窓と出窓がある。
「あら、綺麗にしてあるじゃない」
光は男の一人暮らしの部屋は初めてらしい。
「実家の弟の部屋は知ってるけど、まぁ乱雑で」
光に弟がいることを初めて知った。
「まぁ弟はわたくしがいなければ、何も出来ないのですけど」
ロフトへつながる梯子を光は登った。
寝起きはロフトにマットと布団を敷いてあるだけで、机にはアニメ関連のグッズが並んでいる。
「これは…あなたはバイヤーですか?」
光が間違えたのも無理はない。
保存用のグッズを別にしまってあるからであった。
「お嬢さまってマジで世間知らずというか、浮き世離れしているというか…」
よくアニメでは見るけど、と翔馬は苦笑いを浮かべるより他なかった。
とりあえずとばかりに翔馬は、買い溜めしてあったレトルトのキーマカレーを光に出した。
「いくらお嬢さまでも、カレーは食べたことあるでしょう」
光はかぶりを振った。
「…いただきます」
古道具屋で買い叩いた、安手の有田焼のカレー皿が妙に違和感を醸し出す。
「俺も食べよ」
別皿のカレーを食べながら観たのは、録画したものではなく、内容的に翔馬が気に入っている『響けユーフォニアム』の録画のDVDであった。
何度か翔馬は観ているので何も感じなかったが、隣の光は初めて観たらしく、特に卒業前のあすか先輩と後輩の久美子とのやり取りのシーンでは、グズグズに泣きながらアニメに釘付けになり、カレーを食べている。
「こんな素晴らしい作品があるなんて、知りませんでした」
光は鼻をグスグスいわせながら、
「あなたはやっぱり、私の予想以上の男性でした」
宮崎希があなたに目をつける理由が分かりました──と変な納得をしたようで、
「もし私があなたの理想の女性になったら、どうしますか?」
翔馬はどう読解してよいやら分からなかった。
しかしそれは光なりの告白であったようで、
「私はあなたの素晴らしい伴侶になりたいと思いました」
という言葉で、それは的中したように感じられた。
しかし。
光とて愚昧ではない。
宮崎希というライバルがいることを理解はしているようで、
「私も負けるわけにはいきません」
カレーを食べたあとの口で、隣に座っていた翔馬の首に腕を回し、まるで媚薬でもかかったかのように、翔馬の唇を甘噛みした。
「翔馬…愛してます」
次第に舌が入ってくるようになったので、
「ちょっ…待っ、待てっての!」
ひとまず光をなだめた。
光の潤んだ眼から、一筋の涙がこぼれた。
「…私のことが嫌いなのですか?」
「そうじゃなくて」
「では、はしたないとか淫らだとか?」
「そこでもない」
聞いてくれ、と翔馬は光の頬を両手で包んだ。
「仮にここで光お嬢さまと関係を持ったら、あなたは嬉しいかも知れないが、希が傷ついてしまう。俺は誰かを泣かしてまで、自分だけの欲望を達したいとは思わない」
申し訳ない──翔馬のいつわらざる意思に、
「…こちらこそ、ごめんなさい」
光は軽くキスをしてから、身を離した。
それでも光は、翔馬が光のそれまで知らなかった世界を知っていることに、関心はあったようで、
「あなたは私が留学までしたのに分からなかったことを、アニメを通して知っている」
なぜ教えてくれなかったのかを問うた。
「だって…訊かれなかったから」
翔馬の答は明快であった。
「…腕を組むぐらいは、許してもらえる?」
翔馬は何も言わない。
無言で光は、翔馬の左腕にみずからの腕を回した。
「いつも右腕だから、なんか新鮮だなぁ」
左利きの翔馬は、腕を組むときも手をつなぐときも、常に右腕でそれをする。
当然、希はそれを知っていて、気を遣うようにして翔馬の右手をつなぐ。
「私は宮崎希と同じことはしない」
意地なのか矜持なのか、左腕を離そうとはしない。
光はしばらく翔馬の腕にもたれ、目を閉じたまま黙っていたが、
「…もう、帰らなきゃ」
光はそれまで見せたことのない、潤んだ眼差しで翔馬をじっと見つめてから、
「今日はありがと。もっと早く気づけばよかったのかも知れないけど、でもあなたが優しい人なのは分かった。私の目は曇ってなかったみたい」
光は翔馬を抱き締めたまま、
「…少し臆病なところ、私は嫌いじゃない」
そう言うと光はすっと離れ、この日は帰っていった。
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