Episode 3
土曜日の夜、希との待ち合わせは、翔馬の家から近い川崎新町の駅である。
「翔馬さんお待たせ!」
握手会ちょっと長引いちゃって──という希は車をみずから運転してあらわれた。
「…握手会?」
翔馬はよく分からなかったらしい。
「うん。私ね、あんまり売れてないけど、カレッジアイドルのグループにいるんだ」
「そうなんだ」
としか、翔馬には言いようがない。
「車の中だから言えるんだけど…私ね、翔馬さんみたいな、今どきじゃないイケメンのほうがタイプなんだ」
グレーのパーカーをかぶり、ベイスターズのキャップに丸メガネをかけ、軽自動車のハンドルを握る姿からは、希がアイドルであることを想起することは難しい。
「私のお気に入りの場所に行ってもいい?」
希は少し下道でぐるぐる回ってから、
「やっと巻けたかな」
そういうと高速道路へ入った。
さっきの車、週刊誌だよ──希は苦笑いをしてから、
「ワイドショーとかに出たらごめんね」
しかし翔馬はほとんどテレビを観ないらしく、
「せいぜい観ても友達から勧められたアニメぐらいで、害がないからいい」
といった。
「それで財布にラバストつけてるんだ?」
翔馬の財布には「響け!ユーフォニアム」の川島
「実は三次元の女の子は、少し懲りててさ」
「私も三次元の男子は眼中になかったんだけど、翔馬さんがあらわれてから世界が変わっちゃった」
希は運転しながら放胆なことを言った。
それでね翔馬さん、と希は、
「私ね、結婚したい人としか寝ないって決めてて」
つまり初めての相手が翔馬であったらしい。
「翔馬さん、上手なんだね。みんな初めては痛いって言ってるけど、全然痛くなかった」
あけすけな物言いに少し翔馬はたじろいだが、
「だからパパにも言った。翔馬さんのことがスクープされたら、引退してそのまま結婚するって」
勝手に決められても困るではないか──言いそうになったが、
「もちろん勝手なのは分かってるし、翔馬さんの気持ちもあるだろうし。でも私、翔馬さんに出逢って、初めて一人が寂しくなくなった」
車中という密室だと、心は開いてしまうものであるらしい。
「だから、これだけは分かって」
赤信号で停まった。
希は、話を聞いていた翔馬の唇を、自分のそれで塞いですぐ離れた。
「…大好きだって分かってくれたら、それでいい」
青信号になると、軽自動車は藤沢から浜須賀を目指していた。
希のお気に入りの場所は、茅ヶ崎の端にあるキャンプ場がある海岸であった。
「ここにはよく家族で来てたんだけど…あのね、私パパとは血が繋がってないんだ」
希はおそらく、ファンの前では笑顔と夢を振りまいているのかも知れない。
しかし目の前の宮崎希は、一人の大学の一回生であり、真っ直ぐに気持ちをド直球で投げ込んでくる、不器用ながら心が揺さぶられる存在でもあった。
そんな駆け引きのない希に、翔馬はどう応えるべきであるか、いつも考えさせられてしまう。
「もしかしたら希さんが、いちばん一途なんだと俺は思う」
抱き締めるかキスをするぐらいしか出来ないが、それでも翔馬としては、ひたむきな希には心を動かされていた。
週明け、翔馬が出勤する時間になると、なぜか光が総務に顔を出した。
「辻さん、ちょっと」
仕事前に呼び出されたので、
「出来れば手身近に」
「じゃあ手早く訊きます。あなた、宮崎希が何者かを知ってて、一緒の車に乗っていましたこと?」
突き付けたのは画面をプリントアウトした資料で、
「宮崎希…神奈川県出身。カレッジアイドルグループ・ブルールージュのリードボーカル兼副キャプテン。担当楽器はベース。イメージカラーはグレー」
などと書かれている。
「あなたが一緒に遊んでいる子は、日本を代表するカレッジアイドルの一人で、あなたが仮に彼女と一緒だと世間に知れたら、あなたはファンから命を狙われるかも知れないのですよ」
お願いですから別れて下さい、と光は高圧的な言い方をした。
翔馬は相手が怒れば怒るほど、冷徹になるところがある。
「それは単にアイドルだから、ですかね? 何か裏がありそうで…もしかしたら彼女がいると光お嬢さまは、何か不利益をこうむるとでも?」
「確かに彼女は、海士部組とライバル関係の建設会社の社長の一人娘です。でも」
どこでどうやって、たぶらかしたのだか──光は口が滑った。
「少なくとも俺が知る限りの宮崎希は、光お嬢さまがいうような子じゃない」
「だけど、あの子が辻さんをパーティーからお持ち帰りしたって…」
翔馬の目つきが変わった。
「そういうのを、下衆の勘繰りって言うんです」
冷静なまま、まるで刺し貫くような冷ややかな言い方で、翔馬はしたたか言い放った。
光はぐらついたように見えた。
「光お嬢さまでも、言って良いことと悪いことがある」
「…そうね。他人の色恋沙汰に口なんか挟んじゃいけなかったわよね」
光は負けを認めた様子で、引き下がるように廊下を寂しげに戻っていった。
昼休みに翔馬は社員食堂へは行かず、コンビニでおにぎりとコーヒーを買い、屋上で一人でランチをしながら、菜々子にLINEを飛ばしてみた。
「綱島に話がある」
「なに?」
すぐ返信が来た。
「俺…クビになるかも」
「なんで?」
「社員で社長の娘と喧嘩になったから」
菜々子は、
「電話いい?」
「いいよ」
すぐにかかってきた。
「先輩…何やらかしたんですか?」
「実は知り合って仲良くなった友達がライバル企業の社長の子供で、それで縁を切れと」
「…うーん、それいちばん難しいパターンですよね」
さすがに菜々子も困った様子であったが、
「もし友達が女の子だったら、単に彼女ですって言い切っちゃえば、誰も何も言わないかも知れないけど」
どこまで知っているのか分からないが、かなり正鵠を射た反応ではある。
仮にそれで彼女ですってなったら、と翔馬は訊いてみた。
「ほら…だって私、ただのコンパニオンだから」
「あのなぁ、こっちはクビがかかってるんだからさ」
「でも私が仮に先輩の彼女だったとしても、私なら気にしないで同じことを言うと思う」
だって今カノってかなりのパワープレーヤーだから、と菜々子は述べた。
「だって彼氏彼女がいるってのは、どうやっても覆せないもん」
菜々子はもしかしたら、誰か気になる人があるのかも知れない。
「そっか…でもありがと。助かったわ」
翔馬の通話は切れた。
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