第34話 2020年5月26日 ギャップアップ⑥

順子に問い詰められた俺は何も答えることができず、ウィスキーを口元に運び続ける。


「なんとか言ったらどうなの?」


順子は畳み掛けることを止めない。

仕方ない。

この剣幕では全部話さないと納得しないだろう。

だが、酔い続けていないと喋ることが難しかった。

無言で席を立ち、今度は自分で次のグラスを取りに行く。

新しいグラスを持って席に戻ってくる間、順子は腕組みをして俺の方をずっと睨み続けていた。

俺は自分の心を落ち着ける為にウィスキーを一口飲み、今度は順子の心を落ち着ける為に口を開いた。


「最初は調子が良かったんだ。

 何枚CFDをショートしても直ぐに利益が出て、始めて一週間くらいで100万以上稼げたんだ。

 だけど、4月に入ってから調子が悪くなって。

 何度かナンピンしたんだけど、結局決済買いできなくてこうなった。

 ごめん。」


最後のごめんは何に対して謝っているのか自分でもよくわからなかったが、順子のいかようを見るにつけ、言わない訳にはいかなかった。


「ポジション取るにしても限度ってもんがあるでしょう!

 予想と逆に言ったら損切する、それが基本だよ。

 信用とか先物とかは。」


まだ怒りは続いているようではあったが、俺の説明にはある程度納得してくれたようだ。

言葉の鋭さが少しやわらぎ、そう感じた。


「で、これからどうするの?

 まさか破産するまでポジション取り続けるってことじゃないよね?」


「一応、21,500円で逆指値は入れてる。

 それが自分の限界と思ってる。」


これは事実だった。

ここが本当に俺にとっての限界点だった。

ここを超えれば家と車以外の資産をほぼ全て失うことになる。

だが、順子は納得しなかった。


「じゃあさ、春雄はまだ21,500円到達する前に反転の可能性があると思ってるの?」

順子の言葉がまた鋭さを増してきた。


「……いや。」

流石に俺も、ここから19,000円に戻ることはもうないだろうと諦めている。

俺が全財産を失うのは時間の問題だろう。

今晩か、明日か、来週か。


「なら、今すぐここでポジション解消しな!

 CFDなら今の時間、まだ取引できるよね?

 そうしないと本当に全てを失うよ、春雄。」

順子は真剣な表情で身を乗り出して俺にせまる。


「……わかった。」

気迫きはくに押されて仕方なく同意する。

スマホを取り出しCFDの取引画面を出す。

現在の含み損は1,330万円程になっている。

決済取引画面を出し、『全決済』ボタンを見つめる。

……

できない。

ダメ元で順子に頼んでみる。


「なあ、順子。

 半分だけじゃダメか?

 19,000円には戻らないだろうけど、20,000円には戻るかもしれないし。」


我ながら往生際が悪い。

だが、意外なことに順子はこう言った。


「わかった。

 じゃあ、半分は逆指値21,500円のままで、残りは今損切するってことだね?」


「うん、そうする。

 約束する。」


俺みたいな嘘つきの約束に効力があるのかどうか不明だが、わらにもすがる思いでそう口にしてしまった。


「わかった。

 じゃ、いま私の目の前で、ここでやって。」

解いていた腕を再度胸の前で組み直し、順子は言った。


俺は観念してスマホアプリを操作し始めた。

損切の逆指値設定は変えず、決済枚数を60枚から30枚に変更する。

順子は画面をずっとテーブルの向かいから覗き込んでおり、ごまかすことはできない。

今度は個別決済の画面を出す。

売り玉を30枚、成行決済と設定し、後は決済ボタンを押すだけとなった。

指が震える……、押せない。

半分の損切とはいえ650万円以上の損が、この赤いボタンを押した瞬間に確定するのだ。

650万と言えば年収に匹敵ひってきする。

いや、税引き後の手取りを考えたら恐らく年収よりも多いだろう。


「順子、決済する前にもう一杯だけいいか?」


懇願こんがんするように順子に喋りかけると、順子は無言で席を立った。

どうやら俺の願いを聞いてくれるらしい。

そして、よこしまな俺はチャンスと感じてしまった。

今なら決済枚数を変更しても順子にばれない。

今は10枚だけ決済して……。

念の為に後ろを振り向くと順子はカウンターのそばに立っていたが、視線はずっとこっちに注がれていた。

ダメだ。


順子は戻ってきて不愛想にグラスを差し出す。

俺が無言でグラスを受け取り、それに口を付けたのを確認して言う。


「さあ、約束通り損切して。」


冷徹に無表情のまま俺に言い放つ。

俺はいつの間にか画面がロックされたスマホを再び解除し、注文画面の決済ボタンを見つめる。

勇気が出ない。

顔を上げ、順子を見る。

目が合った瞬間、順子は厳しい顔で軽くうなずく。

『殺れ!』

そんな顔だ。

自然と涙があふれる。

顔を手の甲でぬぐう。

何度目だろう、今日涙を流すのは。

いや、今日だけではなかった。

最近は毎晩泣いていたではないか。

涙で画面がにじむ。

もう一度グラスを口元に運び、一気に全ての液体を流し込む。


そして、グラスの露と涙で濡れた指で、俺は遂に決済ボタンを押した。

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