第33話 2020年5月26日 ギャップアップ⑤
どのくらいの間ここにいたのだろう?
覚悟を決めた俺は口の中からぐちゃぐちゃにふやけたトイレットペーパーを取り出し便器に投げ込んだ。
水を流しトイレの個室を出る。
洗面台で口の中を濯ぎ顔を洗い、鏡を見て軽く身だしなみを整えオフィスに戻った。
人の
午後4時過ぎだ。
順子には悪いが、手短に荷物を整理して約束の時間になる前にここを出よう。
机の引き出しを開けて書類と私物を整理する。
過去のプロジェクト関連の書類はもう参照することもないだろう。
私物は
自席と共有エリアにあるゴミ箱の間を何往復かした後、今度は大量の書類を持ってコピー機の横にあるシュレッダーに向かう。
無心になり、ひたすらシュレッダーに書類を食べさせてやる。
シュレッダーの
オフィスの長い通路の端から黒い人影がこちらに向かって歩いてくる。
目を細めながら人物を追っていると、それが順子であることに気付いた。
約束の午後5時半まで、あと1時間近くあるはずだが。
順子に見られたくないと思い、コピー機を利用して死角に入る。
だが、俺の席まで来た順子は机の様子を見て、今度はコピー機の陰に隠れるようにしゃがんでいた俺のところまで真っ直ぐ歩いてきた。
「春雄。
あんた、なに隠れてるの?」
若干
「いや……別に隠れてなんかないけど。」
目を
「嘘!
私、最初から全部見てたからね。」
そこまで言うと順子は深いため息をついて言った。
「残りの時間はここでテレワークするから。
約束すっぽかして逃げようとか思わないでね。」
鋭い目つきで俺を
順子はいったいどういうつもりなのだろう?
なぜ急にそんなことを言い出すのか。
ただ、順子の考えはどうあれ、俺は自分の意思を押し通すことが今は難しいことを悟った。
仕方ない、ちょっと予定変更して順子と最期の
シュレッダーの相手を途中で切り上げ、自席に戻る。
改めてパソコンを開きメールを
たまに話しかけてくる順子に適当な
「さ、行こっか!」
順子が急かす。
俺はノートパソコンを順子のリュックよりひと回り大きな黒のリュックに詰め、順子に先導されてオフィスを出た。
「で、どこに行くんだ?
できれば今日は早く帰りたいんだけど。」
そう俺が聞くと順子は言う。
「早く帰りたい?
誰もいない家に?
行くのは駅の反対側の、ちょっとお酒が飲めるところ。」
皮肉のスパイスをまぶして俺の質問に答えてくれた。
新宿西口の会社を出てから10分ちょっと歩き、線路の高架を
普段のこの時間なら人出で真っ直ぐ歩くことも難しいエリアだったが、外出自粛が続いていることもあり寂しい雰囲気すらあった。
カフェバーの中も同様で20席以上ある店内の客は俺達以外、1組しかいなかった。
順子はもう1組の客から遠い席に陣取りメニューを見始めた。
「春雄はなに飲む?
私はカルアミルクにしようかな。」
俺は強めのアルコールが飲みたいと思いメニューを見たが、該当するものはウィスキーしかないようだ。
「じゃあ、ウィスキーのロックで。
一番安いやつでいいや。」
順子はわかったと言ってカウンターに注文をしに行った。
どうやらカウンターで注文してセルフで飲み物を運ぶスタイルのようだ。
しばらくして小さなトレイにカルアミルクとウィスキー、それに小さな旗を載せて順子が戻ってきた。
「はい、ウィスキー。
つまみは後から持ってきてくれるって。」
つまみは頼まなかったんだけどな、と思いつつウィスキーを口元に運ぶ。
そういえば今日は何の為の会合だろう。
俺は聞いてみた。
「で、順子。
今日は何で誘ったんだ?」
だが、順子はそれには答えずカルアミルクを舐めている。
店員がソーセージの盛り合わせと生ハムを俺達のテーブルまで運び、離れていったのを見て話し始めた。
「誘ったのは、春雄が株で負け続けてるから。
まだポジションをキープしてるんだよね?
どうなの?」
順子はいきなり核心に切り込んできた。
何と答えようか、いや正直に答えるしかあるまい。
だが、酒の助けが必要だった。
「もう一杯、同じのもらえるか?」
順子は無言で席を立ち、直ぐに同じウィスキーを手に持って戻ってきた。
「ポジションは……まだ解消してない。」
俺は観念して告白した。
「やっぱりね。
で、どのくらいのポジション取ってるの?」
順子は少し顔を近づけながら聞いてきた。
「CFDで60枚。」
もうどうにでもなれ、そんな気分で答える。
「いくらくらいでショートしてるの?」
順子は間髪入れずに聞いてくる。
「19,000円くらいかな。」
そう俺が答えると順子は思案顔になり、しばらく経ってからまた喋り始めた。
「まあ金額はそれなりだけど、そろそろ諦め時じゃない?
バッサリ切っちゃえば……」
そこまで言って、急に真顔になって更に身を乗り出してきた。
「春雄、あんたどこの証券使ってるの?」
俺は順子が態度を急変させた理由がわからないまま聞かれたことに答えた。
「MBO証券だけど。」
それを聞くとスマホで何かを調べ始め、そして何かを探し当て、左手で自分の頭を
「MBOって、レバレッジ100倍じゃない!
なんでそんなことになってるの?
130万と思ったら、1,300万以上の含み損じゃない!」
俺は何も言えず、ただうなずくことしかできなかった。
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