第32話 2020年5月26日 ギャップアップ④
意図的に株価を見ないよう仕事に集中する振りをしていたが、午後3時を回った。
東京証券取引所の終値を見ないと言うわけには行かないだろう。
俺はスマホを持って席を立ち、トイレの個室に向かった。
個室に入り蓋の締まったままの便座に腰掛け、意を決してスマホのロックを外した。
証券会社のアプリを立ち上げ日経平均株価の終値を確認すると……21,271円。
俺の便座に腰掛けたまま、がっくりと
ダメだ、もう終わりだ。
俺の最終防衛ラインの21,500円まで、わずか229円しかない。
下手をすると明日どころか今日の大阪証券取引所のナイトセッションで先物が値を上げれば、CFDもそれに釣られて到達してしまうだろう。
そうすれば……そうすれば俺の1,500万円は水の泡だ。
自然と涙が込み上げてくる。
朝、あれだけ泣き、吐き、もう全てを出し切ってしまったと思ったのに、
俺はトイレットペーパーのロールから紙を大量に巻き取り自分の口の中に入れた。
辛い、辛い、辛い。
なんでこんなことになったのか。
涙が止まらない。
トイレに誰か入ってきた気配がする。
俺はどんな小さな嗚咽も漏らさないよう更に強く口の中にトイレットペーパーを押し込む。
だが、涙は止められない。
いっそのこと、このまま喉にトイレットペーパーを詰まらせて死んでしまいたい。
死んだら実はこれは夢で、今はまだお正月を明けたばかりで……。
ダメだ。
現実だ、これは。
全ては俺の選択が間違っていたのだ。
大した勉強もせず、株や先物みたいな金融商品に手を出した俺が馬鹿だったのだ。
妻の美奈ことを思う。
きっと、美奈は俺のことを許さないだろう。
俺が美奈の立場だったらそうだ。
自分の立場をわきまえず1,500万円もお金を勝手に使い込むようなパートナーは要らない。
むしろ害悪ですらある。
息子の茂のことを思う。
俺の馬鹿な行いのせいで将来の選択を
小学校や中学校は公立に行くしかなくなるだろう。
俺は親に中学から私立に行かせてもらったと言うのに。
自分がしてもらったことの半分も自分の息子にはしてやれそうにない。
情けない父親だ。
両親のことを思う。
久しぶりに電話をしてお金の無心をした時、両親は本当に俺のことを心配してくれた。
昼に電話をしたのにもかかわらず、その日のうちに300万円を用立ててくれた。
年金生活の両親にとって300万円は大金だったろう。
その300万円をものの数日で溶かしてしまった。
順子のことを思う。
順子は親身になって俺のことを心配してくれた。
今日だってそうだ。
会社に来る必要なんてないのに、こんな俺のために予定を変更してまで来てくれた。
その前だって、何度もポジション整理をした方がいいと言ってくれた。
なのに、俺は自分の考えに固執して、結局のところ順子のアドバイスを何一つ聞きはしなかった。
これは天罰なのかもしれない。
必要なお金は持っていたのに、よりお金を持っている人間に嫉妬したことへの。
自分の考えを絶対と思い、他の人間の言うことを聞かなかった傲慢さへの。
事実を都合のいいように解釈し、それに合うように嘘をつき続けたことへの。
疲れた。
もう終わりにしよう。
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