第35話 2020年5月27日 赤三兵①

暗闇の中で俺は目を覚ました。

ここはどこだろうか?

確か同期の石橋 順子とカフェバーにいて半ば無理やりに損切りさせられて……。

何があったのかをさかのぼって思い出そうとしていると、直ぐそばで寝息が聞こえた。

順子と同じベッドで寝ているのか?

少し混乱してきた。


確かに順子のことは憎からず思っていたが、別に付き合っているわけではない。

順子はどうだろうか?

嫌われてはいないはずだが恋愛感情があるのか? というと微妙な気がする。

昨日、損切りするように迫ったのも友達としてのことだろう。

そもそも順子は俺が結婚していることを知っている。

順子のようなロジカルな人間が一時の感情で抱かれるというのは考えがたかった。


暗闇の中で順子を確認しようと目をらす。

段々と目が慣れてきて、確かに隣に順子が寝ていることを認めた。

次に自分の状態を確認する。

どうやら昨晩、あのカフェバーに行った時の格好のままだ。

そもそもここはどこだ?

最初はラブホテルなのかとも思ったがどうも違うようだ。

ラブホテル特有の照明器具のスイッチが枕元に見当たらないこと、部屋の中に本棚らしき物体が見えることから、おそらく順子の部屋であろうと理解した。


記憶をもう一度遡り、この状況を確認して推理する。

損切りの後、俺はきっと酔いつぶれるか寝てしまったのだろう。

それで俺を放置して帰れなかった順子がタクシーを呼んでここまで連れてきた。

そういえば、なんとなくだが車の後部座席に押し込まれたような記憶がある。

醜態しゅうたいさらしてしまった。


水が飲みたい、そう思い上半身を起こす。

順子と反対側に目をやると扉が見える。

あの扉の向こうにトイレや洗面所があるだろうと予想し、順子を起こさないようにゆっくりとベッドを抜け出した。

トイレに行き、洗面所で手を洗い、両手を使って水をすくってうがいをした後、何度か水を飲む。

時計を見ると午前3時だった。

昨日の夜はこの時間もダウと日経先物の値動きを見てたな、そんなことを思う。

だが、今は見る気が起きなかった。

半分とはいえ、損切りをしたことで憑物つきものが落ちたような心と身体の軽さがあった。


順子が眠る部屋に戻りどうしようかと考えたが、今から自宅に帰るわけにもいかず、かといって市場をウォッチする気も起きず、消去法ではあるが二度寝をすることにした。

順子には悪いがベッドの端でもう一度眠らせてもらおう。

腕時計を外し、シャツとチノパンを脱ぎ、下着だけの状態でベッドに身体を滑り込ませる。

順子を起こさないように細心の注意を払ったつもりだったが起こしてしまったようだ。


「……春雄、起きたの?」

眠そうな声で順子が言う。


「ああ、ごめん。

 水が飲みたくなって。

 昨日はいろいろと悪かった。」

寝た状態のまま、順子の方に身体を横向きにして俺は答えた。


「昨日、大変だったんだよ。

 覚えてる?」

いつもより低い、ゆっくりとした口調で聞かれた。


「タクシーに乗ったのは何となく覚えてるんだけど。

 決済ボタンを押した後から記憶があんまりない。」

俺は正直に答えた。


「バーで泣き出したのも?

 ほんとに大変だったんだから。

 大の男がわんわん泣き出して。

 ま、気持ちはわかるけど。」


「そっか。

 すまなかったな。

 順子には醜態ばっか晒して。

 流石にあきれたろ?」


これだけ醜態を晒せば恥ずかしくて顔向けできないところだが、それでも俺は順子であれば許してくれるのでは? という妙な安心感があった。

だが、順子の答えは期待とは違った。


「そだね。

 呆れた。」


なく言い放つ。

その言葉を聞いて胸が軽く締め付けられる。

だが、その後直ぐに順子も俺の方に横向きになり、お互いが暗闇の中で顔を合わせる状態になって言った。


「でも、がんばったね。」


そして順子は俺の頭を両腕で抱え、胸と腕で包み込む。

俺は順子に抱きしめられて、幼い頃に母親にそうされたような安心感を得た。

その安心感は俺を赤ん坊のように無防備にさせた。

順子の胸の上で涙がこぼれ、それがすすり泣きとなり、最後はむせび泣きとなった。

俺は順子の背中に両手でしがみ付き、泣き声が響かないよう鼻と口を順子の小振りだが柔らかな胸に強く押し付けた。

順子は俺の泣き声が大きくなると強く抱きしめ、落ち着いてくると腕をゆるめたり頭をでたりして、俺が泣くに任せていた。

最早もはや何が悲しくて泣くのかは俺自身も説明はできない。

ただただ今まで我慢していたものがあふれ出し、止めることができなくなっていた。


そして、泣き疲れた俺はいつの間にか再度眠りに落ちていた。

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