第27話 2020年5月20日 トレンドブレイク

一昨日のザラ場終了時点で俺は日経平均株価の下落を予想していた。

しかし現実は、それを嘲笑あざわらうかのように上昇し始めていた。

昨日は俺が抵抗線として考えていた75日移動平均線を上回る瞬間があり肝を冷やしたが、今日はその肝を冷やす余裕すら与えてもらえなかった。


前場の開始時点で昨日の75日移動平均の値段20,482円とほぼ同じ値段、20,454円からスタートしたのだ。

そして、俺の信じていた抵抗線は開始後ものの数分で破られた。

俺の購入したテクニカル分析の本によると抵抗線を破る、つまりトレンドブレイクは強い上昇の予兆として説明されていた。


俺にできることは限られていた。

一つはこのまま何もせず、天に運を任せて成り行きに身をゆだねること。

こうすれば損失は今の保証金の入金金額に限定される。

資産の大半を失うが仕事を首になるわけでもなく借金が残るわけでもない。

なんとかやり直せるだろう。

俺、独りなら。

だが、もし資産を失えば、茂の教育資金を使い込んだ俺のことを妻の美奈は許さないだろう。

資産以外にも妻と子、そして今俺が住んでいるマイホームも失うことになるかもしれない。

それだけは避けたかった。


そうすると必然的にもう一つの選択をすることになる。

自分の読みを信じて、資金の限界まで耐えて日経平均株価が反転するのを待つしかない。

といっても、もう俺の手元資金をかき集めても恐らく100万円には届かないだろう。

どうするか……。


意を決して俺は九州の片田舎に住む両親に電話をかけることにした。

スマホの通話アプリを立ち上げ母を呼び出す。

数秒後、画面には年老いたがそれでも元気そうな母の顔が現れた。


「やあ、母さん。

 久しぶり。

 元気にしてる?」

これからお願いしなければならないことの重さを想像し、緊張しつつもそれを見せないように喋る。


「ああ、春雄か。

 あんたが電話してくるなんて珍しいねー。

 美奈さんと茂は元気かね?」

母はにこやかに話しかけてくる。


「元気にしてるよ。

 今は実家に戻ってるけどね。」

当たりさわりのない事実だけを述べるが、それでも美奈と茂のことを話すと心がチクリと痛んだ。


「そうかそうか。

 美奈さんの実家は近いからねー、お前のとこから。

 それで、今日はどうしたかね?

 平日の昼間っから。」

人を疑うことを考えないような口調で、息子なのだから当然なのだろうが、質問してくる。


「実はさ、このコロナ騒ぎのせいでだいぶ収入が減っちゃってさ。

 で、家のローンの支払いが少し厳しいんだよね。」


はたから見たら大嘘に聞こえるかもしれない。

だが、俺からすればこれは断片的ではあるが真実だった。

収入が減ったのはコロナ騒ぎのせいだし、家のローンの支払いが今後とどこおりそうなのも事実だ。

ただ、その間にある株で損失を出しているという事実を話していないだけだ。

嘘をついてまで両親からお金を引き出すことはできない、そんな俺の心理状態がこのような卑怯な言い回しを許容した。


この俺の切り貼りした事実を聞いて、母は心底心配そうな顔と声に一変した。

「あら、それは大変だねー。

 どうしたもんかしら。」


「美奈の実家にはこういうこと相談しづらくてさ。

 で、父さんと母さんにお願いがあるんだけど、しばらくの間お金を貸してくれないかな?」

遂に核心に切り込む。


「そりゃあ、あんたの頼みだし、家のローンじゃ仕方ないしねー。

 ちょっと待ってて。

 父さんとも相談してみるよ。」


画面から母が消え、実家の居間が映し出される。

綺麗に整理整頓されているが、いかんせん物が多すぎる家だ。

俺が子供の頃に読んでいた本が本棚にまだあることに気付いた。

誰も読まない本なんて、もう捨ててもいいだろうに。

そんなことを考えていると今度は父が画面に現れた。

母は父の後ろ、背中越しにこちらを見ている。


「春雄か。

 お金が必要なんか?」

もうすぐ70歳のはずだが威厳いげんに満ちた顔で父は確認するように聞いてきた。


「うん。

 300万円程、都合してほしいんだ。

 もちろん、収入が元に戻ったら直ぐに返すよ。」

本当は500万円と言いたかったがローンの支払いとして多すぎる、300万円でも十分多いのだが、と思い控えめにお願いする。


「300万円か……、意外に多いな。」

父は率直な感想を述べる。


「いや、今年だけならもう少し少なくても大丈夫なんだけれど、この状態はどうも2、3年続くみたいだから多めに借りれたら借りたいんだ。

 ダメかな?」

取りつくろうように俺は300万円の根拠を説明する。


「……わかった。

 今から銀行に行って送金する。」

厳しい表情は崩さず、決定事項だけを言う。

父はおそらく100%は納得していないのだろう。

それでも必要以上には詮索せんさくせずお金を用立ててくれるようだ。


「ありがとう。

 本当に助かるよ。」

心の底からの感謝を父と母に伝える。


「あと、これは念の為だが、もしお金を返せなくなったら、その時は遺産からお前の取り分を減らすことになる。

 そうしないと幸子に悪いからな。」

父の立場からすれば当然だろう。

妹の幸子と俺との間に差をつけたくないのだ。


「わかった。

 ちゃんと理解している。

 ありがとう。」

俺は全てを理解した上で改めて感謝をした。


いつ手に入るかわからない遺産などどうでもよい。

目先の危機を回避するためのお金の方がはるかに大事なのだから。

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