第16話 ある家族へ
「君は、自分のお父さんとお母さんを殺したい?」
私の問いに、少年は何かを言おうとした後に口を噤む。そして、言っていることがよくわからない、というように怪訝そうに眉を顰めたまま、小さく首を傾げた。その態度は肯定でも否定でもなかった。
単に戸惑っているのか、言葉の意味が理解できていないのか。
私が初めて"死"という概念を理解することができたのは、いったいいつのことだっただろう。少年くらいの年齢の時には、おぼろげながらも"死"がどういったものなのかを理解していたような気がするが、記憶を遡ってもはっきりとは思い出せない。けれど、きっとそういうものだ。私たちは死を自覚なく理解し、自覚なく受け入れている。
公園で立ち話をしていた老夫婦が、会釈をして私たちの目の前を歩いて横切る。私と少年も軽く頭を下げる。
私も少年も、何も言わない時間がしばらく続いた。
彼の言葉を待っていると、やがて公園に面した道路の路肩に、黒い乗用車が乱暴に停まった。
苛立たしげに車のドアを閉めて降りてきたのは一組の男女だった。男性の方は見覚えがある。少年の父親だ。きっとその隣にいる女性はその妻、つまりは少年の母親なのだろう。
自分の両親の姿を見つけた途端、少年が身を竦めたのが隣に座っていて分かった。彼は自分の親に対して明らかに怯えていた。きっとそれは、子どもが親に向ける反応としては適切なものではない。
「ねえ」
私はもう一度、隣にいる少年に尋ねる。
「君はあの人たちがこれから先、ずっといなくなってほしい?」
まだ、少年は何も言わない。
彼が黙っている間にも、少年の両親は徐々にこちらに近づいてくる。
少年は顔を上げようとせず、ただ自分の足元をじっと見つめている。私はただ少年の言葉を待ちながら、こちらに近づいてくる彼らを、隣にいる少年の代わりのように、視線を逸らすことなく見つめ続ける。
やがて、ふたりが私たちの目の前に立った。
父親の方は明らかな怒りと苛立ちで、その顔を強張らせている。母親の顔は初めて見るが、夫とは対照的に、小馬鹿にしているような表情を浮かべている。けれど、その瞳は笑っていない。
彼の父親が無言で少年の手首を掴み、強引にベンチから立ち上がらせる。少年の着ている丈の合っていないシャツの袖が肘の辺りまでずれ下がり、彼の細く、そして青白い腕が露わになる。
肌のシミとも、かさぶたともつかない黒い斑点が、少年の腕の上に点々と膨らんでいた。
私はあれが煙草を押し付けられた痕であることを知っている。なぜなら私の腕にも同じものがあるからだ。目にする度に、溶かされていくような痛みや刺すような熱さを思い出すことができる、どうしようもなく醜い痕が。
「見てんじゃねぇ殺すぞ」
私の視線に気づいたのか、少年の父親が威圧的に言い放った。母親の方は少年の腕を見て、冷笑しながら「キモ」と短く呟いた。
父親に腕を掴まれた少年は、引きずられるようにして無理やり歩かされる。少年は抵抗する素振りを見せない。もちろん抵抗したところで、大の大人に敵うはずもないのだろうが。
今度こそ、私にできることはもう何もない。結局、少年が両親の死を望んでいるかどうかは分からなかった。
私は運命なんてものを信じていない。けれど、なるべくしてこうなったのだと、そう自分を納得させた。
一歩、また一歩と遠ざかっていく三人の背中を見つめる。
すると、少年がゆっくりと、こちらに顔を向けようとした。けれど、それに気づいた父親が少年の頬を叩く。そこまで大きな音は鳴らなかった。ガーゼが貼られているからだ。
大人が子どもへ暴力を振るっている光景というものは、見ていて気分のいいものではない。私は顔を顰めた。それは怒りからではない。嫌悪感からだ。
痛そうに頬を押さえ、その場にうずくまりそうになった少年の腕を父親はまた強引に掴み、立ち上がらせる。
彼は泣いているだろうか。悲しんでいるだろうか。怯えているだろうか。私からはじっと俯いている少年の横顔しか見えなかったのでそれは分からない。けれど、確かに少年の口は動いた。
「たすけて」
それは今にも消えてしまいそうな声だった。
けれど、私は確かに聞いた。彼の救いを求める言葉を。
私を突き動かしたのは、正義感、などといった崇高なものなんかではないと思う。
ただ、やらなければならないと感じた。
自制心だとか、迷いだとか、そういったものの一切が頭の中から失せていた。
それはまるで、私に能力を使われた人間が、否応なく自殺に誘導されてしまうのと同じように。少年の声が、私にそうさせた。
だから、気がつくと口を開いていた。
「おい」
私の声に、三人が揃って振り向く。父と母と、その息子。
ああ。
まるで仲睦まじい家族みたいじゃないか。その一瞬の姿を見て、そう思った。
「死ね」
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