第17話 救済
私の言葉に、父親は少年の手首から唐突に手を放す。
少年の父親と母親。何かに表情を奪われてしまったかのようなふたりは虚ろな目をしながら、共に並ぶようにしてゆっくりと踵を返した。
父親に手首を放された少年はよろめき、地面にふらふらと尻餅をつく。掴まれていた青白い手首には、父親の指の痕がはっきりと残っている。けれど、その痕は時間さえ経てばいずれ消えるだろう。時間が経っても消えない痕よりかは、ずっといい。
「目、閉じたほうがいいかもしれない」
徐々に遠ざかっていくふたりの背中を眺めながら、私は少年に言った。彼は頬を片手で押さえたまま少し戸惑った様子を見せたが、やがて私の言う通りにぎゅっと目をつむった。
少年の両親は、路肩に停めた自分たちの車に乗り込むのかと思いきや、それに見向きもせずに通り過ぎる。
そして、ふたりは一切の躊躇いを見せることなく─まるでそういった使命を何かから与えられてしまったかのように、車の行き交っている道路に身を投げた。
耳を塞ぎたくなるほどに重厚なクラクションが響き渡り、ふたりは大きな衝突音とともに、偶然通りがかった市営の交通バスに撥ね飛ばされた。その様子はまるで空中に向かって放り投げられた布製の人形のように軽く、脆いものだった。とても同じ人間だとは思えないほどに。
そして、彼らはそのまま勢いよく地面に叩きつけられる。
先ほどまで誰かに暴力を振るっていた人間が、その数分後に無様な格好で横たわっている光景は、見ていてどこか滑稽ですらあった。おかしくて、思わず笑ってしまいそうになるのをこらえる。
「もう開けていいよ。目」
私の声に、少年は恐る恐る目を開く。つい先ほどまで目の前にいた自分の両親がどこにもいないことに気がつくと、彼は地面から立ち上がることもせず、きょろきょろと不安そうに辺りを見回す。
「おとうさんと、おかあさんは?」
少年の声は小さく震えていた。
「いなくなったよ。いや、正確にはまだ向こうにいるんだけど。君は見ないほうがいいかな。きっとグロいから」
少年の両親が撥ね飛ばされた辺りから、女性の甲高い悲鳴が上がった。ちょうど事故が起こった瞬間を目撃したのか、もしくは凄惨なことになっているであろう死体を見たのかもしれない。悲鳴を上げた女性と、それからあのバスの運転手には気の毒なことをしてしまったかもしれない。罪に問われることはないだろうが。
先ほどまで公園の芝生の上で遊んでいた家族も、動きを止めて心配そうな表情を浮かべていた。まだ幼い女の子だけが、真剣な顔をしている周囲の大人たちの様子がおかしいのか、母親の腕の中でころころと楽しそうに笑っていた。
「あの人たちはこれでもう、君の前に現れることはない」
そんな光景を他人事のように眺めながら、言葉を続ける。
「ねえ」
そして私はひとりごとのように呟く。
「これで、君は救われたのかな?」
少年を困惑させるだけの質問になってしまうのは分かっていても、彼が何かを答えてくれることを期待して、一方的に投げかけてしまう。
「これで、私は救われたのかな?」
自分の父親を殺してから、ずっと考えていた。
はたして私は、父を殺したことで救われたのだろうかということを。
もちろん、虐待を受けることが無くなったという意味では私は救われただろう。父を殺したことで、私を取り巻いていた身体的な暴力も、結果的には母親から受けていた精神的な暴力も消えた。何よりも、あのとき父を殺さなければきっと私は死んでいたのだ。
けれど、他の人物はどうだろう。
私のことを車で轢きそうになった男性と、脅迫を交えた罵声を浴びせた女性。自分のために殺したふたり。
そして、少年の父親と母親。自分以外の誰かを救うことができると思って殺したふたり。
彼らの死が、私に何をもたらしたか。
─それは、葛藤だった。
多くの人の命を奪った私のような人間がのうのうと生きていていいのだろうかという葛藤が、父を殺してから今に至るまで、病原菌が身体をじわじわと蝕んでいくように心の中に蔓延している。
罪悪感、とは少し違う。今まで生きてきた中で自然と培われてしまった、潜在的な規範や秩序といったものがその葛藤を引き起こしている。
そして、自分の中に根付いているその規範や秩序といったものに照らし合わせれば、おそらく私は。
おそらく私は、死ぬべき人間なのだろう。そう思っている。
しばらくして落ち着きを取り戻したのか、ようやく少年は立ち上がった。彼はそのまま立ったままでいるか、それともベンチに座るか迷うような素振りを見せ、結局私の隣に座ることにしたようだった。
「わかんない」
そして、少年は静かに答えた。
わかんない。私の言葉の意味が、というわけではなさそうだった。
「でも」
「うん」
「おとうさんと、おかあさんが」
「うん」
「人を殺すのはいけないことだよ、って言ってた」
どうして人を殺しちゃいけないの、という子どもらしい純粋で残酷な疑問。
子どもを納得させられるような回答ができる大人はごく僅かであろう疑問。
生命の尊さだとか、善悪だとか、そういった会話を交わすことができたような"家族"としての時間が、確かに彼ら三人にもあったのだ。
けれど、そんな時間は私には想像し得ない何かをきっかけにして崩れてしまったのだろう。崩れた結果、少年に対する虐待へと繋がった。一歩間違えれば、彼は殺されることになっていたかもしれない。
それでも、人を殺すことはいけないこと。
「そっか」
少年と、彼の両親。この家族にとって、最も幸福な未来とはどういうものだったか。
─決まっている。三人で仲睦まじく生きていくことだったはずだ。
少年が両親に連れ戻され、それから家族としての望ましい関係性が修復されるような未来が待ち受けていた可能性は、おそらく限りなく低い。警察や児童相談所に頼ってもどうにもならなかった虐待という問題が、あの家族間だけで解決できるわけがない。
けれど、ゼロではなかったことは確かだ。それをゼロにしたのは、その可能性の芽を完膚なきまでに踏み潰したのは、間違いなくこの私だった。
はあ、と息をつく。なぜだか肩の力が抜けてしまった。緊張の糸が切れたというよりも、今までやってきたことが徒労に終わってしまったときのような脱力感に近いものだった。
「─私はそろそろ帰るよ。君も、ここにいるよりは家に戻ったほうがいい気がする」
ベンチから腰を上げようとしたところで私は気がつく。
「忘れてた。これ、要らないから君にあげる」
私は肩に掛けていた鞄から茶封筒を取り出し、少年に手渡す。
「帰ったら自分だけが分かる場所に隠しておくといいよ。もし他の誰かに見つけられても、私から貰ったって言わないでね」
不思議そうな顔をして、少年はおずおずとそれを受け取った。封筒の中身を確認することはせず、私に尋ねる。
「これ、なに?」
「お金。─私のじゃないけど」
高校生の頃に母の名義で送られてきたお金は、合わせると百万円を優に超えるほどの額になった。
このお金に手をつけることはあり得なかった。ならばいっそのこと捨ててしまおう、などとは思わなかった。そんな行為はあまりにも幼稚だからだ。けれど、どこかに寄付もしたくなかった。彼女の行動が間接的にこの社会の役に立ってしまうからだ。私にとっての彼女はその行動も存在もすべてが無価値でなければならなかった。
だから私は、このお金を第三者に─目の前にいる少年に託すことにした。知らない人から貰ったとは言わないようにとは伝えたものの、彼はこれから周りを囲むであろう大人たちに正直に話しそうな気もする。それも彼が決めることだ。
少年はこのお金を使うのか、使わないのか。使うとしたら何に使うのか。使わないとすればどうするのか。彼の行動が予測できるほど、私は彼のことを知らない。
いずれにせよ、私の手から少年の手へとその封筒が渡ったとき、今まで自分が縛りつけられていたものをようやく切り離すことができたような、そんな自己本位な解放感があった。
「じゃあね」
そう告げて、私は立ち去ろうとする。
またこの少年と会うことはあるだろうか。きっとないだろう。私から彼に会おうとすることも、彼から私に会おうとすることも、道を歩いていたらばったり会う、そんな偶然すらも起きない気がした。
背を向けると、後ろから少年の声がした。
「おねえちゃん」
その呼称が私のことを指している、と認識するまでには時間がかかった。振り返ると、彼はまっすぐな瞳でこちらを見つめていた。
「なに?」
「ありがとう」
お礼を言われるとは思っていなかったので、面食らう。私はなぜ感謝をされているのだろう。何だかおかしくて、少しだけ笑う。
「うん」
頷いてから、私は少年の前から立ち去る。
感謝されるようなことはしていない。頼まれてもいないのに勝手に彼の親を殺して、頼まれてもいないのに勝手にお金を渡しただけだ。
ははっ、と何度も声を上げて笑いながら、寮までの道を歩いて辿る。すれ違う人から異物を見るような目を向けられても気にならない。
やっぱり、私は下らない人生を歩んでいる。
それが面白くて、また笑った。
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