第14話 夜と約束
空を見上げると、柔らかな橙色よりも濃い群青色の方が目立つようになっていた。
これから暗い夜が訪れるまでに、そこまでの時間を要することはないだろう。サッカーをしていた少年たちもいつの間にかいなくなってしまったようだ。しかし、隣にいる少年がベンチから腰を上げる気配はない。
初めはただ単に家に戻りたくないだけなのだと思っていた。家で過ごす時間を、両親と顔を合わせる時間を減らしたいがために。ただ、もしかすると。
私はミネラルウォーターの入ったペットボトルのキャップをかちりと回し、頭の中に浮かんだもうひとつの推測を口にする。
「君さ、もしかして家出でもした?」
─彼は長い時間を置いてから、首を小さく縦に振った。
ひとりの小学生の男の子が、周りの大人たちに内緒で決行する、ある種の冒険のような家出。その文章の響きだけであれば、そこには濁りのない純粋な勇ましさと、無知で未熟であることへの危うさを感じる。
けれど、この少年にとっては。
その家出は"冒険"なんていう心躍るものではない。最も近い言葉は、きっと"逃避"だ。
「家出するなら、もう少し遠いところに行ったほうがいいと思うけど」
口に出してから、それは彼にとって現実的ではないと思った。小学生がひとりで行ける場所なんて、きっと私が考えている以上に限られているのだ。
大学生となった私は、寮の最寄駅から電車に乗り込み、一度乗り換えさえすれば海にだって行けることを知っている。空港から飛行機に搭乗すれば、海外にだって行けることを知っている。けれど、きっと彼はそのことを知っていたとしても、想像が及ばないのだと思う。知っていることと、具体性を伴った想像ができることは似て非なるものだ。
私の見ている世界と彼が見ている世界は、その広さが違う。彼にとっての世界は、時間を経て、今よりも賢くなって、今よりも背が伸びて、今よりももっと多くのものを見渡すことができるようになるのと同じように徐々に拡大していくものなのだろう。
「お父さんとお母さんが探してるんじゃないの?」
自分の子どもがいなくなった場合、普通であれば警察に相談するのが筋なのだろうが、彼の両親にその発想はあるだろうか。もしくは、虐待が発覚するリスクを恐れて相談しないかもしれない。
「今は、家にいない。明日もどる」
「へえ」
「でも」
彼は真横に置いてある自分のリュックサックに目をやる。
「たぶん、スマホでわかると思う」
スマホ、と私は戸惑いとともに呟く。
自分の子どもに位置情報の分かる機能が搭載されているスマートフォンを持たせること自体はそこまで珍しいことでもないだろう。けれど、ことこの少年の家庭においては強い違和感があった。自分たちが虐待をしている子どもに対してそんなことをするだろうか。意図が掴めない。
そして、彼は自分の位置が知られることを承知の上でスマートフォンを持ってきたのか、ということも甚だ疑問だった。家に連れ戻されたくないのにも関わらず、自分の居場所を親に知らせる。はたしてそんなものが家出と呼べるのだろうか。そんなものは冒険でも、逃避でもない。
「おとうさんと、おかあさんがここに来て」
ひとまず私は少年の話に意識を戻す。
「家にもどされたら」
「うん」
「もっとたたかれるかも」
これから起こるであろう事実を告げるように彼は淡々と言う。暴力を振るわれることに怯えているわけでも、悲嘆しているわけでもなさそうだった。徐々に暗くなっていく空の下で、少年がその表情を変えることはなかった。
「でも、もういい」
「何が?」
「ぜんぶ。どうでもいい」
どうでもいい。
どうでもいいわけではないはずだ。少なくとも、彼の中では。
彼はすべてを諦めているのではなく、自分の感情に目を向けることをひたすらに避けているように感じる。
自分の親を憎んでいるのか。それとも、暴力を振るわれてもなお愛されたいと願っているのか。それはおそらく少年自身にも分かっていない。だからどうすればいいかも分からない。そんな気がした。
けれど、まだ十歳かそこらの子どもに、自分自身の感情を整理してそれらをあるがまま受け入れて行動しろ、なんていう方が無茶かもしれない。そんなことはきっと、大人にだって簡単にはできやしない。
「─とりあえず、こんな公園で過ごすよりもせめて屋内で過ごしたほうがいいと思うよ。そこら辺の学校とか、区民体育館にこっそり忍び込むとか。シャワーがあればもしかしたら使えるかもしれないし」
秋の夜は、思った以上に私たちの身体を冷やす。
実際は忍び込めるかどうかすらも確かではないが、少なくともこのまま外で一晩を明かすよりはいいはずだ。もちろん褒められる行為ではないが、子どもであればなんとでも言い訳はできるだろう。
私はミネラルウォーターにゆっくりと口をつける。冷たい水ではなく、温かいお茶を買ったほうがよかったかもしれない。
「また明日の朝、この公園に来てくれる?」
「え」
少年はほんの少しだけ驚いたような顔をして、しばらく考えた末に「いいけど」と呟く。戸惑うのも当然だろう。彼からすれば意味の分からない約束だ。交わす意味も、守る意味も。
やがて、公園の外灯がそっと灯った。夜が訪れたことを周囲に知らせるように。
それを合図にしたわけではないが、私はそっとベンチから立ち上がる。
─そして、気紛れに。あるいは冗談に聞こえるくらいの調子で、言った。
「─君は、自分のお父さんとお母さんを殺したい?」
わざわざ言わなくてもいいことだったかもしれないが、一度口に出してしまった言葉は取り消すことができない。
彼が「殺したい」と言ったところで、私はどうする気なのだろう。
少年が何かを言う前に、私は背を向けた。だから、彼が今どんな顔をしているのかは分からない。
「じゃあね」
少年は自分の両親のことを、殺したいほど憎んでいるだろうか。
そして私は、誰かのために誰かを殺すことができるだろうか。
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