第13話 無駄だった
しかし、そんな自分の意思に反するようにして、私はその数日後に少年を見かけてしまった。
望まない偶然ばかり起こってしまうのはなぜだろう、と思わずにはいられない。けれど、望んでいないのに起きるから偶然と呼ぶのだろう。望んで起きたことを、きっと人は必然と呼びたがる。
◇
寮近くのコンビニエンスストアでミネラルウォーターを買った、その帰り。
日が少しずつ傾き始めた十月の空は、まるでアクリル製の絵具を丁寧に水で薄めて塗り広げたような、そんな柔らかい橙色に染まっていた。
片手に提げたレジ袋をぶらぶらと揺らしながら歩いていると、右手に公園が見えてくる。この公園を右に曲がってしばらく進むと、あの少年の家がある住宅街へと行き着く。
信号のない交差点の一角にある、飛び出し防止用であろう目の粗い緑色のフェンスに三方を囲まれた公園。その敷地の半面には芝が張られており、もう半面にはこじんまりとした滑り台や、ところどころ塗装が剥がれてしまっている小さなブランコなどの遊具、木製の簡素なベンチなどが設けられている。
思い切り遊ぶには手狭だが、小休止には適している。そんなどこにでもあるような、ありきたりで飾り気のない公園だった。
普段であればそこまで気にも留めないのだが、遊具に反射している夕焼けと、芝の上でサッカーをしていた子どもたちの声に誘導されるようにして、私は目線を何気なくそちらに向ける。
─公園の端にひっそりと設置されているベンチに、まだ私の記憶に新しいひとりの男の子が座っていた。
それはあの虐待を受けている少年だった。彼はベンチの背に浅く背中を預け、真横には通学に使っているのか、無地の黒いリュックサックを置いている。そして、彼の片頬には、相変わらず白いガーゼが貼られている。
これから少年に関与するつもりがないのであれば、見なかったことにして無視するべきだ。けれど、私は少年に話しかけることにした。
彼がどこか落ち着きなく辺りを見回し、明らかに冷静さを失っているように見えたからだ。
初めて出会った時と同じように、私はゆっくりと少年に近づく。
あのときは夜だったが、今は夕方だ。お互いの姿に気づくまでに、時間はいらない。
少年は私に気が付くと、しばらくこちらを見つめていた。そして私が隣に腰掛けると、彼は視線を外した。
「ねえ」
彼は私のことを覚えているだろうか。はっきりと顔を合わせたわけではないので、忘れているかもしれない。別に忘れられていたところで何の問題もないのだが。
「この公園にはよく来るの?」
彼はしばらく無言だったが、やがて口を開いた。
「あんまり」
素直に答えてくれる当たり、どうやら私に何となく覚えはあるらしい。と、少なくとも私はそう受け取ることにした。
少年は相変わらず小さな声だった。けれど、心なしか以前よりも沈黙が続く時間は短かったような気がした。もちろん、これは私の都合の良い解釈に過ぎないかもしれない。
「帰らなくていいの?」
訊いてから、随分と意地の悪い質問をしているということに気がついた。私は彼が家庭内で虐待を受けていることを知っているのだ。誰が好き好んで虐待をされる家に帰りたいと思うだろうか。私だって思わない─というよりも、思わなかった。
「まだ、いい」
「ふぅん」
まだ、という言い方が少し引っかかったが、彼は続ける。
「帰ったら、おとうさんとおかあさんにおこられるから」
「怒られたらどうなるの?」
少年は癖なのか─おそらく癖ではなく自分が怒られた時のことを思い出しているのだろうが─自分の片頬にそっと手で触れる。そして彼は、頭の中に浮かべているひとつひとつの言葉を両手で掬って、それらを慎重に選別するかのように言った。
「─ふたりに、たたかれる」
返ってきたのは簡潔な言葉だった。きっと叩かれているだけではないはずだ。過去の私がそうであったように。あくまで叩かれるというのは彼が両親から受けている行為のうちのひとつなのだろう。
しかし、この少年は叩かれるという言葉を選んだ。そこには何か特別な意図があるのかもしれないし、そんなものはないのかもしれない。例えば、自分の両親を庇っているだとか。もしくは、具体的な言葉にすることを躊躇っているのか。
なんにせよ、少年に向けられる暴力はまだ続いている。彼自身がそう言ったことで、それはより確固たるものとなった。警察や児童相談所への通報は何も解決しなかった、という点も含めて。
「そっか」
子どものころに虐待を受けたことのある私は、今まさに虐待を受けている少年にかける適切な言葉を有していない。
安っぽい同情も、紛い物のような共感も、きっとこの場にはそぐわない。だから私は当たり障りのない、しなくてもいいような相槌を打った。
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