第12話 少年へ

 翌日。昨日と同じ時間に私はその家へと向かった。


 向かってはいるもののどうしようか、と道中を歩きながら考える。


 おそらくあの家では虐待が行われている。けれど、実際に虐待が行われている場面を目撃したわけではないのだ。あくまで虐待が疑われるだけの場合であっても然るべき機関に通報をするのが望ましいのだろうが、わざわざそんなことをする義理も義務もないような気がした。


 私は別に、高潔な良心といったものを持って生きているわけではない。自分に関わりがないことには消極的だ。


 こういうときに普通の人はどうするのだろうか。もちろん自分のことを普通ではないとは思わないが、この世界は道義心の強い人たちばかりで、こういった状況に置かれたときには迷わず通報をするものなのだろうか。それとも見て見ぬふりをするのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、くだんの家が見えてきた。


 昨日とは違う点がふたつあった。


 ひとつは、物音もなく声もせず、昨日と比べると異常なほど静かであるということ。


 もうひとつは、その家の前で影のようなものがうごめいたように見えたということだ。


 外壁の窓を見るに室内の明かりは灯っているようだが、玄関の照明は点けられていなかった。街灯の明かりもほとんどそこには届いていないため、その影の正体をはっきりと見ることができない。私はじっと目を凝らしながらゆっくりと近づき、そして気づく。


 ひとりの子どもが、玄関の軒下に座り込んでいた。その子は体育座りのような姿勢で両脚を抱え込み、身体を小さく丸めながら膝と膝の間に顔を埋めている。


 私はスマートフォンのライトを控えめに点け、暗闇の中で探し物をするかのように、そっとその子どもの足元を白い光で照らす。灰色のサンダルに、細い足首。おそらく男の子だろう。


「ねぇ」


 声をかけると、ぴくん、とその少年の身体が跳ねるように動く。けれど姿勢はそのままで、その顔を窺うことはできない。


 私はライトを当てる位置を足元から徐々に上げ、座り込んでいる少年の身体全体が見えるように光を照らす。そんなことをしていると、なぜだか悪いことをしている気分になった。もちろん良いことでもないのだろうが、他人が心にしまい込んでいる秘密を無理やり暴いているかのような、そんな感覚に近い。


「そんなところで何をしてるの?」


 辺りが静かなこともあって、普段と同じ声量で話しているつもりでも私の声はいつもより大きく聞こえた。


 当てられているライトが視界にちらついて鬱陶しかったのか、それとも私の声の大きさがそうさせたのか。少年は両脚を抱えたままゆっくりと、まるですべてに疲れてしまったかのように顔を上げた。


 まだ十歳前後であろう、線の細い顔立ちをした少年だった。男の子にしては目が大きく、その髪はもう少しで肩まで届こうかというくらいに長い。


 しかし、私を含めた多くの人は少年のそういった顔立ちよりも、彼の右の頬に貼られた白いガーゼに否応なく目が向いてしまうかもしれない。彼の片頬の大部分を覆ってしまっているガーゼが、透明な医療用テープで乱雑に止められている。


「そんなところで何をしてるの?」


 一語一句、同じ質問をする。


 すると少年が困ったような顔をしたので、私も困った。そこまで答えるのが難しい質問だろうか。けれど、知らない人間に突然話しかけられれば誰だって困惑するものなのかもしれない、と思い直す。


 私と少年との間に、しばしの沈黙が流れる。


 ニャア、と野良猫の高い鳴き声がどこかから聞こえた。少年はちらりとその鳴き声のした方向に目を向けるだけで、口を開くことはない。答えないのか、それとも答えられないのかは私には分からない。


 やがて、沈黙にも飽きてきた私が三度目となる質問を投げようとしたところで、意を決したように少年は言った。


「おとうさんと、おかあさんに」


 言ったそばから暗闇に溶けてしまいそうなくらいに儚げな声音だった。「うん」と私が続きを促すと、少年はまたぽつりと言う。


「出ていけ、って」

「へえ」


 出ていけ。親が子どもにその言葉をかけるような場面は限られているように思える。

 喧嘩。躾。勘当。そうでなければ、虐待。それ以外には何があるだろう。


「その怪我は?」


 私が少年の頬を指さしてそう訊いたところで、玄関の扉が開いた。


 姿を見せたのは、明らかな警戒心と敵意をこちらに向けているひとりの男性だった。年齢は三十代半ばといったところだろうか。顎に携えた無精ひげと、鋭く、神経質そうな目つきが特徴的だった。


 その男性は私の顔を一瞥すると、苛立ちを隠すこともせず大きく舌打ちをしてから少年に言った。


「何してんだ。早く入れ」


 少年の着ているシャツの襟を掴んで引っ張るように家に上げると、男性はこちらを見向きもせず「クソが」と吐き捨ててから力任せに扉を閉めた。扉が閉まる直前、少年が一瞬だけこちらを振り向いたような気がした。その表情までは見えなかった。


 クソが、とは私に向かって言ったのだろうか。それとも少年にか。どちらにせよ、殺意を抱くまでには至らなかった。しかし単純に腹が立った。


 その後、私は近隣の住民を装って警察と児童相談所に通報をした。それが今から二週間ほど前のことだ。


 私の通報を受けてから警察官、あるいは児童相談所の職員が実際にこの家を訪れたのか、それとも訪れなかったのか。この家を常に監視しているわけでもないので私には分からない。けれど、依然としてこの家で虐待が行われていることは確かなようだった。


 とはいえ、もう私にできることは何もない。


 然るべき機関に通報はした。けれど状況は変わらない。ならばどうするべきか。


 過去に私がそうしたように、少年の父親を殺す。無理だ。私に関わりがない以上、殺したいとまでは感じない。そもそもその必要性を感じない。少年を助けなければならない、なんていう立派な信念は私にないのだ。


 なので、一切を忘れることにした。

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