第9話 この世界を憎んで何になる

 ◇


 両親のいなくなった─父親と母親での意味が異なってしまうのだが、私の高校生活は平穏と言ってもよかっただろう。


 どうやら私が入学した高校は、自由な校風かつ進学校ということでそれなりに有名な学校だったらしい。私は学校寮の設備がいかに優れているかということと、奨学金の制度が充実していることだけを高校を選択する上での基準に据えていたので、それは後から知ったことだ。


 生徒を縛りつけるような校則らしい校則もなく、課題らしい課題もない。けれど、勉強や部活についていけなくなった生徒に足並みを揃えるほど甘くはない。生徒の自主性を重んじているとも言えるし、自己責任を強いているとも言えるような学校だったが、他人からの干渉を嫌う性格である私には合っていたように思う。


 このような校風を魅力的だと思う生徒は全国に一定数いるのか、私のように県外から進学してきた生徒もちらほらといたので、私ひとりだけ目立つというようなことはなかった。


 目立つか、目立たないか。その二択で私のような人間の学校生活に大きな差が生じるとは思えないし、特別に親しい友人もできなかったが、小学生や中学生の頃よりはまともな学校生活を送ることができたと思う。私のことを誰も知らない環境に一新された、という点も大きかったのかもしれない。


 経済的にも、学校から返還義務のない奨学金を給付される程度の成績は修めていたし、授業終わりの放課後にはアルバイトもしていたのでそこまでの苦労はしなかった。


 驚いたのが、母から私の預金口座に対して、月々ある程度の仕送りが送られてきたことだ。


 その仕送りは私が高校を卒業するまで続いた。それが母によるものだったのか叔父によるものだったのか、もしくは顔も見たことのない義理の父によるものだったのかは分からない。何にせよ、実家からの仕送りに関しては今に至るまで一切手をつけていない。


 つまらない矜持きょうじを保っているように見られるかもしれない。けれど、月に一度、母からの名義で加算されていく口座の残高は、どうあっても完全には絶つことのできない家族との繋がりを示しているようで薄気味悪くもあったし、不愉快でもあった。ただし、それを突き返すようなこともしなかった。もうこれ以上、あの家と接点を持ちたくなかった。


 何にせよ、学校生活にも私生活にも支障はなくなった。私に痛みを与えてくるような人間もいなければ、私を苦しめるような人間もいなくなった。そんな環境を心から快適だと感じた。


 それは裏を返せば、私は父を殺しておいても、自分を取り巻く日常を快適だと思うことができるような人間になってしまったということだ。


 平凡な日々を送っていると忘れそうになる。私は、自分の手で人をひとり殺しているという事実を。


 あれから月日が流れても、私の心に罪悪感というものが芽生える気配はなかった。後悔もなかった。


 正しいことをしたとは思わない。けれど、間違ったことをしたとも思っていない。殺されそうになったから殺したのだ、だからあれはいわゆる"正当防衛"だったのだ─と主張するつもりもない。そもそもそんな主張をしなければならない相手もいないのだ。


 殺したいほど憎んでいた人間を殺す、という本懐を遂げた人間はそもそも罪悪感など芽生えないものなのか。それとも、私の頭のどこかの螺子が外れてしまったのか。そのどちらなのかは、実際に人を殺してしまっている私が判断できることではないのだろう。


 ◇

 

 私はこの世界を憎んでいるわけではない。


 例えば、私はたまたま道ですれ違っただけの赤の他人を殺すことができない。なぜなら殺意を抱くことができないからだ。本来は誰もが有しているであろう一定の良識だとか倫理観だとか、そういったものが致命的に欠落しているというわけではないという証拠なのかもしれない。だから私がいわゆる大量殺人だとか、無差別殺人といったことを起こすことはできないし、そんな身勝手なことを行う気も全くない。


 ところが、一度誰かに対して殺意を抱いてしまうと。


 例えば、横断歩道を渡っていた私のことを赤信号を無視して轢きそうになったにも関わらず、わざわざ車から降りてこちらに掴みかかってきた若い男性。例えば、何か気に食わないことがあったのか、アルバイト先の喫茶店で私を口汚く罵倒し、スマートフォンで私の写真を撮った後「ネットに拡散してやるから」と脅してきた中年の女性。


 私は名前も知らないそのふたりの人間を殺した。


「死ね」と言ったら、ふたりとも恐ろしいほど簡単に死んだ。


 彼らにも家族やそれに準ずる大切な人がいたかもしれないなんてことは分かっている。彼らが私に見せた顔は、おそらく彼らという人間の側面のひとつにしか過ぎないことも分かっている。自分が不快な思いをしたからその仕返しだ、というあまりにも短絡的な思考の末に他人の命を奪っているということも自覚している。


 自覚はしているのだが、それでも殺してしまった。私は以前の自分とは対照的に、内面から沸き上がってくる衝動的な感情を抑えることができなくなっていた。


 自分の感情に素直に従っているとも言えるし、自制が利かないとも言えるだろう。


 他人に対して「死ね」だとか「殺す」だとか、そんなことは生きていれば誰だって一度くらいは思ってしまうはずだ。その大多数は、それこそ良識だとか倫理観といったものも含めた様々なものを天秤に掛けて、人を殺さない。けれど、私はそのふたつを天秤に掛けた結果、どうやっても殺意の方にが傾いてしまう。


 殺せるから、殺す。なぜなら、私には容易にそれができる手段があるから。


 身勝手だ、と言われてしまったら私は何も言い返すことができない。はい、すみません。くらいは言うかもしれないが、それだけだ。


 もちろんそんなことを言う人に殺意を抱くこともないし、殺すこともない─と、思う。

 


 高校を卒業するまでに三人の人間を殺した。父と、よく知らない男女二名。


 この国の現行の法律において三人もの人命を奪ってしまえば、情状酌量の余地がない限りは死刑となる。法学に明るくない私にも、この国で生活をしているほとんどの国民にも浸透しているいわば不文律のようなものだ。私はまだ未成年だから、もしかするとその限りではないかもしれないが。


 けれど、どちらにせよ私にはいかなる判決も下されることはない。誰も私のことを捕まえることはできないし、誰も私のことを裁くことはできないからだ。


 私は被告人として法廷に立つ自分の姿を想像する。裁判長、検事、弁護士、傍聴している人々。実際に裁判所に行ったことも見たこともない私にはちっぽけで安っぽい、はりぼてのような法廷しか思い浮かべることしかできなかったが。


 ─みんな私が殺しました。そう私は供述する。


 どうやって殺したんですか。殺してやると思いながら「死ね」と言いました。どうして「死ね」と言われた人は死んでしまうのですか。分かりません。けれど、私がそう言えばなぜかみんな死んでしまうみたいです。


 考えるのも馬鹿らしくなった。こんなこと、いったい誰が信じるのだろう。いったい誰が証明できるのだろう。私にだって証明することはできないのに。


 誰も私を罪に問うことはできない。従って、私を裁き罰することのできる人間はいない。


 もしもどこかにいるとするならば、それはきっと私自身なのかもしれない。


 私が私を裁くという構図がはっきりしないが、漠然とそう思った。

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