第10話 過去は変わらない

 ◇


 高校を卒業した私は、進学校を卒業した生徒の進路としては無難な選択である、四年制の大学へと進学することにした。都内にある、おそらく世間的にもそれなりに認知されているであろう私立の大学だ。


 一般的に、高校を卒業した後の進路に関しては大学にせよ専門学校にせよ、今までとは比較にならないほどの金銭的な費用がかかる。学費はもちろん、ひとり暮らしをするのであれば家賃や光熱費といったものも必要となる。


 けれど、私は大学でも同じように学生寮に入ったし、相変わらず学業も周りと比較するとそれなりに優れていたようだったので、学費や生活費などは大学から給付される奨学金で充分に支払うことができた。


 とはいえ、日々の生活費を考慮するとそこまでの余裕があるわけではない。だから私は、大学の生協の紹介で家庭教師のアルバイトを始めていた。


「先生」

「なに?」

「大学って楽しい?」


 私が受け持っていたのは高校二年生の女の子だった。彼女は都会に住む女子高生らしく垢抜けていて、年上の私に対しても同い年の友人のようにフランクに接してくるような今時の女の子だった。


「それは人によると思うけど、一般的には楽しいものなんじゃないかな」

「一般的にかぁ。じゃあ先生自身は? 大学は楽しい?」

「楽しくもないし、つまらなくもない」


 手に持っていた英語の参考書を静かに閉じて、私は言う。


 私は彼女に国語と英語の二科目を教えていた。週に二回、二時間程度の講義ではあるがそれなりの収入になる。家庭教師というアルバイトは、その拘束時間の割にとても時給が良い。


「楽しいかどうかは置いておいて、それなりにレベルの高い大学へ行けば良いこともある」

「例えば?」

「家庭教師みたいな、楽で時給の高いアルバイトができる」

「それ、生徒の私の前で言う? 別にいいけど」


 いかにも大学生のアルバイトらしい意欲や熱意に欠けた発言をしてしまったが、私が家庭教師についてから娘の成績が上がったと彼女の両親も喜んでいるらしかった。


 しかし、これは私の教え方が上手いというよりも、彼女が学校での堅苦しい授業や学校教師という人間を嫌っており、それこそ家庭教師のような生徒と同じ目線での教え方のほうが彼女には合っているというそれだけのことだった。彼女の成績の向上は、彼女自身の要領の良さに起因している。私としては手間がかからないのでありがたいが。


 授業を終えて帰ろうとすると、玄関先で彼女の母親から丁重過ぎるほどに感謝を述べられる。ちょうど夕食の支度をしていたのか、丈の長い薄緑色のエプロンを着用していた。


初鹿野はじかの先生、今日もありがとうございました。ああ、先生もよかったら晩ごはん、一緒にいかがですか? もうすぐ出来上がりますので」


 受け持っている生徒から言われるのであればともかく、自分よりもずっと年上の大人から"先生"と呼ばれるのはいささか荷が重い。先生と呼ばれることに慣れる日は来ないのだろうなと思いながら、方便ではなく本心から言う。


「いえ…お菓子やお茶も頂いているので。お気持ちだけで充分です。ありがとうございます」

「ちょっと、お母さん」


 慌てたように二階から降りてきた彼女は、少し恥ずかしそうに母親を嗜める。母親は「でもねぇ」「いつもお世話になっているのに」としばらく娘と押し問答になった末に、私はタッパーに詰められたお手製の惣菜を受け取ってから、ふたりに見送られて家を出た。


 帰りの電車に揺られながら、私は考える。


 きっと、ああいった家庭のことを温かい家庭と呼ぶのだろう。


 家族の間で日常的な会話を交わすことができる。一緒に同じことで笑いあうことができる。娘のために家庭教師をつける。娘の学力が向上したことを喜ぶことができる。それはきっと、ほとんどの家庭にとって特別なことではないのだと思う。きっと普通のことのはずだ。


 そうだとすると、私が育ってきた家庭は普通ではなく異常だということになる。


 異常な家庭で産まれ、異常な環境で育った私はどこまでも恵まれなかった。ああ、なんて私は不幸なんだろう─と振る舞うつもりはない。それでは母と同じだからだ。

 

 そんなことをしても、どうにもならない。過去は変えることができない。


 ◇


 入居している学生寮の最寄り駅で電車を降りる。


 改札を抜けて駅舎の外へ出ると、秋の涼しい空気がそっと私の身体を撫でた。冬にはまだ遠いはずなのだが、それでも夜になれば多少は肌寒く感じる。


 私はまっすぐ寮に帰らず脇道に逸れ、人通りの少ない住宅街を歩く。建ち並んでいる住宅の外構に設置されている間接照明と、等間隔で並んでいる道端の街灯だけが、ぼんやりと私の歩いている夜道を照らしている。


 静まり返った住宅街をしばらく歩き、とある家の前で私は立ち止まる。まだ建てられてからそこまで日が経っていなさそうな、住宅街の突き当たりにある何の変哲もない一戸建て。


 玄関口に照明が灯されていないことを目視してから、玄関の扉に近づいて利き耳を立てる。やっていることはどこからどう見ても不審人物のそれだが、私にはそうまでしてでも確認したいことがひとつあった。


 ─家の中から聞こえてくる、男性の怒鳴り声。男の子が泣いている声。そして、何かが壁にぶつかったような物音。ガラスあるいは陶器のような何かが床に落ちて割れた音。


 ああ。まだ続いているのか。


 私は呆れと失望が混じったため息をついた。

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