第8話 ささやかな願い

「─死ね」

 

 その瞬間。


 おそらく母は死なないだろうと察した。


 母のことを本気で殺したいと思っているわけではない自分が、私の中のどこかにいるということ。そして、母が他人からの言葉で自殺をするほど弱く、繊細な人間ではないということ。どちらにせよ母は死なない。殺せないし、死なない。


 そして、母を殺すことができないという直感が、私の疑念を確信へと変えた。


 私は、私が殺意を抱いている人間を、言葉だけで殺すことができる。


 ◇


 病院からの帰り。


 私は叔父の運転する車の後部座席に背中を深く預け、車窓に流れる景色を眺めていた。やがて病室にいた母と同じような姿勢を取っていることに自分で気が付き、座ったまま体勢を変える。


 私の「死ね」という言葉にも、母が反応を示すことはなかった。聞こえていないはずがない。言い返せないわけがない。それにも関わらず、母は無視という行動を取った。それが彼女の決断だった。


「鮮花ちゃん、お母さんとは少しでも話せた?」


 交差点の赤信号に引っかかったところで、叔父がこちらの様子を窺うように話しかけてくる。私は姿勢を崩すことなく、バックミラー越しに彼と目だけを合わせる。


「いいえ」


 にべもなく答えると、叔父は露骨に残念そうな顔を浮かべた。けれど、それをはぐらかすかように彼はすぐに穏やかな表情を作った。


「─鮮花ちゃんも大変だと思うけど、これからはふたりで支え合って生きていかないとね」

「ははっ」


 私の乾いた笑い声は、反対の車線ですれ違った大型トラックの駆動音によってかき消された。だからおそらく叔父の耳に届くことはなかっただろう。


 支え合う。私と母で。ふたりで支え合って生きていく。


 冗談じゃない。無理だろ、どう考えても。


 支え合うというのは、互いに助け合うということだ。楽しいことや幸せなことだけでなく、辛いことも苦しいことも共有していくということだ。もはや何の役にも立たないあの母親が、今まで私のことを助けようとしなかったあの母親が、私のことを苦しめ続けたあの女が、これから私をどうやって支えてくれるっていうんだ。


 ◇


 私は中学校を卒業すると同時にあの家から離れた。ふたりで支えあって生きていかないとね。皮肉なことに、叔父のその言葉で私はひとつの決意をした。


 私が母に会うことは、もう二度とない。


 事実、それから今に至るまで私は母親と一度も会っていない。けれど、高校に入学してからしばらくして、叔父から彼女の近況を聞かされたことがある。


 結論から言えば、母は回復した。彼女は新たに自分を支えてくれる存在を手に入れたのだ。


 それは入院していた大学病院に勤務していた看護師の男性だった。入院生活を介して互いに接するうちに、ふたりは看護師と患者という関係を越えて親密になった。その関係性の深まりと比例するように、母の容態も少しずつ回復した─いや、元通りになっていった。


 退院した母は、どうやらその男性と再婚することを望んでいるらしい。そして、その男性も同じ考えを持っているとのことだった。


「彼の支えもあって、お母さんは少しずつ元気になってるよ」


 電話口の向こうにいる叔父が淡々と私に告げる。お前は何の支えにもならなかったのにな、と言われているような気がした。けれど、今となってはもはやどうでもいい。母にも叔父にも、もう会うこともないだろうから。


 適当な相槌を打ってから電話を切り、私は願った。


 どうか、母がみっともない死に方をしますように。言葉には、しなかった。


 ◇


 私は人を殺すことができる。


 そして人を殺すための、いわば"条件"のようなものがふたつある。


 私がその人物に対して強い殺意を抱いていること。もうひとつは、私がその人物に向けて「死ね」と言葉を発すること。そのふたつの条件を満たしたとき、対象の人物は死ぬ。正確に言うのであれば、自殺するための最適な行動に至る。


 ─あまりにも現実的でないことは私も自覚している。こんなことを他人に話しても誰も信じてはくれないだろう。頭のおかしい女が、頭のおかしいことを言っていると思われるだけだ。逆の立場だったら私だってそう思う。


 いや、もしかすると本当に現実ではないのかもしれない。本当の私はあのときとっくに父に殺されていて、私の見ている、自分が存在していると思っているこの世界は、死後に見ている幻、あるいは幻覚のようなものなのかもしれない。


 私にはそれらを否定する根拠がない。けれどそれと同等に、それらを肯定する根拠もない。


 だから私は、この世界を現実だと思うことにした。


 もしもこの世界が現実だとすれば、きっと私はこの世界で生きている誰よりも簡単に、人の命を奪うことができる。

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