第7話 まるで悲劇のヒロインのようなかわいそうな母へ

 最愛の夫を喪ってからの母は、次第に自宅で過ごす時間よりも病院で過ごす時間の方がずっと長くなっていった。やがて彼女は小さな病院の心療内科から、大学病院の精神科に通って治療を受けることになり、入院や退院を頻繁に繰り返すようになった。


 母の実兄─つまりは私にとっての叔父から聞いたところによると、どうやら母はらしい。


 それを聞いて私は思わず笑いそうになった。


 何を病気になることがあるんだよ、と。


 一度だけ、入院している母の見舞いへと行ったことがある。希薄と言っていいほどに面識の少ない叔父に強引に連れられたのだ。叔父が病院のロビーで面会の受付を済ませているのを待っている間も、薄暗いエレベーターに乗っている間も、母が入院しているらしい病室の前に立っても、私はただ面倒だとしか思えなかった。


 叔父は病室の扉に軽くノックをする。返事はなかったが、彼は扉を開ける。


 病室の奥の右隅。仕切りのカーテンは開きっ放しになっていた。


 青色の病院着を身に付けている母は、ベッドから上半身だけを起こし、私たちから顔を背けるようにじっと窓の外を眺めていた。


「今日は鮮花あざかちゃんがお見舞いに来てくれたよ」


 叔父の呼び掛けにも母は微動だにしなかった。こちらを振り返るわけでもなく、なにか言葉を返すわけでもない。


「すっかり暖かくなってきたなぁ」と話しかけながら、叔父は簡単な差し入れや新しい着替え、日用品などをベッドの脇にある簡素な棚に置いていく。母はそれに見向きもしない。ふたりが実の兄妹であるという関係性を差し引いても、母の振る舞いは、私は病気なのだから当然だ、と言わんばかりの態度だった。


 そんな彼女の姿は、駄々を捏ねれば自ずと周りが動いてくれると思っているような子どもと似ていた。弱々しくしていれば周りが助けてくれると、そう信じている。


 叔父はひたすらとりとめのない、無言の時間を避けることだけを目的としているようなつまらない世間話をしている。何の返答もないことにも慣れてしまっているのかもしれない。私もふたりから離れたところにぼけっと突っ立っているだけだったので、叔父がただひとりで喋っているだけの時間がしばらく続いた。


 やがて、叔父が私に向き直って言った。


「鮮花ちゃん」


 はい、と掠れた声で返事をする。


「しばらくお母さんの傍に居てくれるかな。ふたりだけでしか話せないこともあるかもしれないし」


 ないです、と答える前に叔父はそそくさと逃げるように病室から出ていってしまった。しょうがないので、私は先ほどまで叔父が座っていたベッドの横の丸椅子に座る。


 病室の窓にかけられた薄いカーテンが、外から緩やかに吹き込む風に揺られ、微かに靡いている。


 いったい叔父は私にどうしてほしいのだろう。私との会話を経ることで、彼女の病状が少しでも快方に向かうといった可能性でも期待しているのだろうか。


 私は医者でもなければカウンセラーでもない。だから診療やカウンセリングなんてことはできないし、そんなことをするつもりもない。


 そもそも私は母が回復することを望んでいないのだ。何かを生み出すこともできず、何かを得ることもできず、そうやってただ病院のベッドに横たわってずっと私に嘲笑われ続けていればいいと、そう思っていた。


 相変わらず、母は同じ姿勢のまま飽きもせず外の景色を眺めている。何もすることがなく、そもそも何もする気がない私も、彼女が見ているであろう風景に目を向ける。


 郊外にあるこの大学病院からの景色は、ビルや住宅などの人工物よりも、どちらかと言えば自然の方が目立つ。


 春らしい、穏やかな空が広がっていた。平べったい形をした薄い雲が、水色の海を漂うようにしてゆっくりと流れている。その空を、数羽の鳥が列を成してどこかへと飛んでいく。遠くには、青と緑を均等に混ぜたような色をした、輪郭のぼやけている山々が聳えている。


 大きな変化もなくありきたりではあるが、いつまでも見ていられそうな風景だった。母は毎日この風景を眺めているのか。もし毎日眺めているのだとしたら、何を思っているのか。そもそも私と母の見ている風景は同じなのか。そんなことは別に知りたくもないし、さして興味もない。


 けれど、外の景色に目を向けたおかげで、私は窓ガラスに反射している母の顔を見ることができた。


 そして。彼女のその表情を見て、私の頭の中で何かが弾けた。


 ─どうしてあんたが被害者みたいな顔をしてるんだ。


 何も知らない他人から見れば、夫を自殺で亡くした母のような人物は、確かに同情を寄せるに値するだろう。けれど、私にとってはそうではない。


 私は彼女が私の存在を否定したことを知っている。あなたなんて産まなければよかった。そう言われたことはきっとこの先いつまでも忘れることはできない。


 そんな母がまるで、夫を自殺で亡くした私はこの世界で一番かわいそう、と言いたげな顔をしている。けれど、本心ではそんな傷ついた自分を見てほしくて、他人に見せつけたくて仕方がなくて、もういい歳をしているくせに未だに悲劇のヒロインとしての扱いを渇望していることも私は見抜いている。


 私を産んだこの女性は、こんなにも愚かで、こんなにも憐れなのか。


 一度でもそう思ってしまうと、もう駄目だった。


 ベッドの脇に積まれている美容雑誌も。個室ではなく、他にも患者がいるような大部屋に入院している程度の容態にしか過ぎない母も。それでいて大病を患っているように振舞っている姿も。その何もかもが浅ましく感じた。


 母という人間からそのすべてを剥がし、そのすべてを奪い、そのすべてを消し去りたくなった。



 殺そう。



 そうしなければならないような気がした。

 

「─ねえ」


 私は呼び掛ける。


「お母さん」


 母は動かない。私の声にも一切の反応を示すことはない。

 構わず、言葉を続ける。


「─死ね」


 お願いだから。

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