第6話 ありふれた顛末

 父はマンションの最上階から飛び降りて、死んだ。あまりにも呆気ない最期だった。


 彼の死は、警察によってあくまで一般的な自殺として処理された。マンションの屋上へと繋がる扉を破壊し、屋上から飛び降りた。施錠されていた扉を無理やりこじ開けている父の姿が、マンションに設置されていた監視カメラにしっかりと記録されていたらしい。


 後日、これで数回目となる警察からの聴取が行われた。


 夜、母のいないときに家を訪ねてきたこと。いきなり首を絞められたこと。急に首を絞めるのをやめて、家から出ていったこと。父が屋上から落ちていくのをこの目で見たこと。既に何度も話したことだ。警察がどこまで私の証言を信用したのかは分からない。精神的なショックで錯乱していると思われても無理はないかもしれない。


 けれど、ひとつだけ話さなかったことがある。父に「死ね」と言ったことだ。


 警察に対してわざわざ心証を悪くするようなことを正直に言う必要はないと思った。そして、これには万が一にも父が自殺をした要因のひとつに加えられたくない、という打算もあった。殺されかけたのだから、そのくらいのことはしても許されるだろう。


 ─いったい誰が許してくれるのかは分からないが。



 ─他殺の可能性はなく自殺であること。自殺の動機は不明であること。遺書なども残されていないということ。そして、私を殺そうとした理由も分からないということ。


 ふたりいる警察官のうちの片方が神妙な面持ちで、しかし自身の職務を全うするかのように淡々と説明する。これも既に何度も聞かされたことだ。私はそれを自宅のリビングで、母とともに黙って聞いていた。


 父が死んでから、母は魂が抜けてしまったかのように呆然自失としていた。


 リビングの、何も映されていないテレビが置かれている真正面。その定位置に座り込んだまま動かないことがほとんどだった。「ごはんはどうするの」だとか「そこに座っていったい何がしたいの」だとか、私が声をかけても一言たりとも言葉が返ってこない。


 やがて私は何を言っても無駄だと悟り、彼女に話しかけることをやめた。次第に私は母のことを気にも留めなくなり、家が静かになっていいな、くらいには思うようになっていった。


 ─警察官の説明が終わった後、母がゆっくりと顔を上げた気配がした。


 おっ、何か喋るのか。私の心は珍しいものを見たかのような反応をした。何かを喋るにしても、どうせ警察に対して下らない問いをぶつけるのだろうと思っていた。母はそういう人だ。


 夫が自殺なんてするはずがありません、だとか。どうして夫は自殺してしまったんですか、だとか。自殺であること。動機も不明であること。自分よりも警察の方が夫の自殺について詳しく調査していることは自明なのに、それらを認めることができずに根拠のない無意味な否定をするのだろうと、そんなことを私は考えていた。


 けれど、違った。


 母は私を見ていた。そして言った。


「─あなたのせいで」


 母は私を睨み付けながら声を震わせた。その目には涙が浮かんでいた。やがて彼女は声をあげて泣きはじめた。



 ああ。



 また私のせいなのか。この人も私のせいにするのか。



 ふぅん。



 死ねばいいのに。



 そう思った。その時は言葉にしなかったけれど、率直に死んでほしいと思った。

 母は自分の夫を心から愛していた。娘である私に対して暴力を振るうような夫であっても、ひとりの男性として愛していたのだ。



 泣き崩れている母を、私は静かに見据える。


 嘘でも演技でもない。彼女は夫が亡くなってしまったことを本当に悲しんでいて、本当の涙を流している。気持ち悪かった。母から滲み出ている全ての感情が安っぽく見えた。


 それからも母は私に向かって何かを言っていたような記憶があるが、あまりよく覚えていない。私のことをひたすら責めていたような気もするし、罵っていたような気もするし、謝っていたような気もする。そんな母を警察官たちは、同情と困惑が混じったような表情で宥めていた。母の様子よりも、警察官の様子の方が深く記憶に残っている。


 けれど、母のことなんてもうどうでもよかった。それよりも。



 死ね。



 その二文字を口にしたら、父は本当に死んでしまった。いったいどういうことなのだろう。


 偶然、なのだろうか。もしも偶然だとしたら、果たしてそんな偶然がどうすれば起こるのだろう。


 私は脳裏に鮮明に焼き付いてしまった、あの父の死体を思い浮かべる。


 彼が死んだのは偶然などではない。私が「死ね」と言ったから死んだのだ。どういう因果かは知らないが、私にはそういう能力がある。言葉だけで人を殺すことができてしまうような、そんな能力が。


 だから私が殺した。私は人を殺してしまった。


 ─馬鹿馬鹿しい。


 漫画やアニメの世界ではあるまいし、現実でそんなに都合の良い、かつ不可思議なことが起きるわけがない。そんなものは学校でいじめに遭っている人間の妄想と同じだ。現実では反抗なんて怖くてできないから、頭の中だけで復讐をする。笑いたくなるほど惨めで、泣きたくなるほどに滑稽だ。


 あのとき偶然、父は自殺をした。だから私のせいではない。私は悪くない。私は人を殺していない。


 父は自殺だったのか。それとも私が殺したのか。それが明らかになるのは、もう少し時間が経ってからのことだ。

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