第5話 ありふれた自殺
「─死ね」
無意識に自分の頬の筋肉が緩み、口の端が上がった。私は父親に首を絞められて殺されそうになりながらも笑っていた。死を目前にしているのにも関わらず、私が最後に笑ったのはどのくらい前のことだっただろう、ということを考える余裕すらあった。
死ね。
ようやくだ。ようやく言うことができた。
ずっと伝えたかった言葉であり、ずっと自分の中で押し殺していた感情だった。
私は死にたくなんてなかった。自殺なんてしたくなかった。自殺するのも、誰かに殺されるのもまっぴらだった。私は父に死んでほしかった。考えられる限り苦しみながら無様に息絶えてほしかった。もしも彼が死なないのであれば私の手で殺したかった。考えられる限り残忍な手段で殺したかった。
きっと殺意という感情はとても自然で、そして純度の高いものだ。
例えば、理不尽に自分に対して暴力を振るう人間に対して。例えば、理不尽に自分を苦しめる存在に対して。「殺す」と思うことの、いったい何がおかしいだろうか。何もおかしくはないはずだ。自然なことだ。
私は救われたかった。たとえ誰かを殺してでも。
誰かを殺してでも、自分がこの世界に存在してもいい理由が欲しかった。
死ね、と他人に言われて気分を良くする者はおそらくこの世界にはいない。もしもこの世界のどこかにそんな人間がいたとしても、少なくともその人物は目の前にいる父ではない。
いよいよ終わりが近づいてきているのか、目の前に私が今までに見てきた情景が次々と噴出する。自分の部屋。学校までの通学路。教室。三人で住んでいた家の浴槽。これがいわゆる走馬灯というやつか、と私はどこか感心すらしていた。けれど、そのどれもが無価値で下らないもののように私の目には映った。
そんな下らない情景で溢れた人生も、もうすぐその幕が閉じられる。私の手ではなく、父の手によって。
私の言葉に逆上した父は、その腕により一層の力を込める。首の骨がへし折られるのか、それともこのまま窒息させられるのかは知らないが、いずれにせよ私は最後には糸が切れた人形のようにがっくりと項垂れ、みっともなく死ぬのだろう。
徐々に遠退いていく意識の中で、私は物言わぬ死体となった自分の姿をぼんやりと想像していた。
◇
しかし、他の多くの想像がけっして想像を超えることができないように、私の想像も結局は私の想像でしかなく、現実のものとはならなかった。
父が私の首から徐にその手を離したのだ。
途端に私は膝から崩れ落ち、激しく咳き込む。肺が呼吸をなんとか整えようとしている。心臓が錯乱しているかのように不規則な拍動をしている。全ては生きるための生理的な反応だ。私の身体は確かに生きようとしていた。
─私を殺さないのか。できるだけ私に苦痛を与えながら殺す気なのだろうか。私がそうやって父を殺したいと思っているように。
両膝を床につき、口から垂れた涎を手の甲で拭いながら私は父を見上げる。
視線の先には、まるで別人のようになってしまった父がそこに佇んでいた。
何を言うわけでもなく、その口はまるでどこかの回路が故障してしまったおもちゃのように、だらしなく開いたり閉じたりを繰り返している。私の首を絞めていたその両腕は、今は指先を地面に向けて力なくだらんとぶら下がっている。血走っていた眼は、息絶えた動物を彷彿とさせるほどに生気というものが感じられなくなっていた。彼の死んだような黒い瞳には、私の姿だけが映りこんでいる。
─怖い。
殴られたり蹴られたり、首を絞められていたときに感じた怖さとは違う。そんな目に見えた恐怖ではなく、もっと得体の知れない不定形な恐怖が、私を内側からじわじわと侵食していった。
彼は本当に私の父親なのだろうか。
そんな馬鹿らしい疑問を抱いてしまうほどに、彼の様子は大きく変貌していた。
やがて、彼はゆっくりと私に背を向けると、覚束ない足取りで玄関から出ていった。つい先ほどまでの出来事が嘘だったかのように、この家にいつも通りの静寂が戻ってきた。
まだ呼吸は苦しい。壁にぶつけた背中も痺れるように痛い。どうやら夢ではないようだ。
─これからどうすればいい。父を追って外に出るべきか。それともここでじっと身を潜めておくべきか。いや、それよりもまずは警察に電話するべきなのか。
実の親に殺されかけるというおそらくは誰にとっても衝撃的であろう出来事があったにも関わらず、私の頭は自分がこれから行うべき最善の行動を判断しようとするくらいには冷静に機能していた。父のあの空虚な瞳がそうさせたのかもしれない。ただ私の姿だけを映していた、あの空っぽな瞳が。
壁に片手をつき、自分の身体を支えるようにしながら玄関の鍵を閉め、恐る恐るもう一度レンズを覗く。今度はレンズの向こうに父の姿はなかった。しかし、誰かが階段を上っている足音が扉越しに聞こえてくる。
─父だ。間違いない。自分を殺そうとした人間がまだすぐ近くにいる。それを意識させられた途端、一瞬で全身が強張った。強く首を絞められたあの感触がじわじわと蘇り、また動悸が激しくなる。苦しい。落ち着け。自分の胸を押さえつけながら、私は深呼吸をした。
そもそも父は、なぜ階段を上っているのだろう。
ここは七階建てのマンションの最上階だ。階段を上ったとしても、そこには屋上へと繋がる扉しかない。その扉も、建物の工事や修繕の時を除いては常に施錠されていたはずだ。だから階段を上ったところで、結局は引き返す他にない。
そんなことを考えていると、足音がぴたりと止んだ。
その代わりに、ガン、ガンと。不規則な間隔で、耳障りな音が真上から響いてくる。
何度も何度も、何かを訴えかけるようにその音は鳴らされる。それはまるで、悪いことをして物置かどこかに閉じ込められてしまった子どもが、そこから出してもらおうと内側から扉を叩いているような。そんな報われなさと虚しさが同居した音だった。
─まさか。まさか、扉をこじ開けようとしているのか。けれど、何のために。
そしてまた、ガン、と一際大きな音が断末魔のように響く。それを最後に、無音となった。
私は混乱していた。いったい何が起こっているのか。
もうこれ以上おかしなことは起こらなくていい。
祈るような気持ちで、私はゆっくりと玄関のドアを開ける。
─目の前で、大きな物体が落下していった。
外廊下の窓の向こうで、重力に抗うこともできずに落ちていったその物体は人間のように見えた。その人間らしきものから最後に発せられた音は、ゴツ、という重く、そして鈍い音だった。
とても不愉快な音だった。一度でも聞いてしまったら忘れられない、耳ではなく脳にこびりついて取り除くことができなくなるかのような音。
私は靴も履かずに飛び出して廊下から身を乗り出し、窓を開けてマンションに併設されている駐車場を廊下から見下ろす。顔や素足を刺すような寒気も、今は全く感じなかった。
見下ろすと、人がひとり、あちこちが捻じ曲がった不自然な格好で横たわっていた。廃棄されたマネキンのようにも見えるそれは、私の父親だった。
駐車場に備え付けられている照明が、舞台で浴びるスポットライトのように彼をぽっかりと照らしている。アスファルトを赤く染めた血痕に、地面を覆うことのない粉雪が溶けていった。
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