第4話 存在理由
そして、それが起きたのはとある冬の日のことだった。
雪が降っていた夜だったことを覚えている。地面に積もる前にさっと溶けてしまうくらいの、粉のように軽やかな雪が静かに舞っていた。
そのとき私は中学二年生で、自分の部屋で机に向かい黙々と学校の課題をこなしていた。もちろん学校は私の家庭環境などを考慮することもなく─そもそも誰にも何も伝えていないのだから考慮しろというのが無理な話なのだが─生徒のひとりである以上、課される課題の量は等しく同じだ。
私は家庭内で起きていることを誰にも相談しなかった。学校にも警察にも、どこかの専門的な相談機関にもだ。
確かに、誰かに救いを求めていればもう少し何とかなったのかもしれない。今よりも幸福な人生を送ることができた未来というものも存在していたかもしれない。けれど私は、もはや自分を取り巻く現実から抜け出そうと思えるだけの気力を有していなかった。自分が幸福になるためには、自分が救われるためには何をするべきなのかを考えることすらできなくなっていた。
あの頃の私は、慢性的な自殺願望を抱えていた。
きっと限界が近づいていたのだろう。中学生となった私にとって、生きるということはただ身体的にも精神的にも苦痛を伴うだけの行為にしか過ぎなかった。
死にたい。
死にたい。
死ぬことが怖いわけではない、と思う。
けれど、死ぬまでにこの身で味わうであろう痛みや苦しみに対する恐怖をどうしても拭うことができない。首を吊ったとすれば、当たり前のことだが呼吸ができなくなる。高いところから飛び降りたとすれば、当たり前のことだが地面に叩きつけられる。それらはきっと、想像を絶するほどの痛みと苦しみを伴う。
だから、一切の苦痛を感じることなく死にたい。眠るように死ぬことができればどんなに楽だろうか。目を閉じたらそのままずっと目が覚めなければいい。もしもそれが保証されるのであれば、私は喜んで自殺をする。
そんなことを考えながら、教科書に羅列されている無味乾燥な数式を目で追う。死にたいと思いながら、学校へ提出するための課題に取り組む。自分のためになるであろう勉強をして、知識を身につける。
それらは明らかに矛盾している行動だった。自分でもどうしたいのか分からなかった。生きたいという欲求を叶えるか。それとも死にたいという欲求を叶えるか。そのどちらかを選ぶことができるほど、まだ私の精神は充分に成熟していなかった。
もう少しで数学の課題が終わろうかという時に、インターホンが鳴らされた。母はまだパートから帰ってきていないので、家には私ひとりしかいない。
同じマンションの住人か、それとも訪問営業の類いか。絶対に父ではないだろうと思った。彼は自分の妻が家にいる時間を見計らってここを訪れる。逆に言えば、母がいないときに父がここを訪れたことはない。─母のパートは週に一、二回の短時間なので、父が訪れないことはほとんどないのだが。
私はインターホンを無視し、課題として出された教科書の範囲の最後の問題を解き終えて、使い慣れたシャープペンシルをそっとノートの上に置く。
もう一度、今度は先ほどよりも長く音が鳴らされる。私は僅かな苛立ちと、それよりも少し大きな不安を覚えながら、ひとまず誰が来ているのかということだけを確認しようと思い立った。顔を確認したところでその人物が誰かなんてことは普段から来客に応対しない私には判別できないし、それを母に伝えることもないのだが、今は胸に生じた不安感を少しでも和らげたかった。
広げていた教科書とノートを閉じ、リビングを通り抜けて廊下へ向かい、玄関のドアのレンズに顔を近づける。
─レンズの向こうには、父の姿があった。
私がレンズを通して父を見ているように、父もレンズを通してじっと私を見ていた。びくん、と私の心臓が大きく脈打った。
そして、私が玄関の鍵が閉まっていないことに気づくのと、父がドアを開けて家に入ってくるのはほとんど同時だった。
─勢いよく玄関の扉が開けられるや否や、父は片方の手で私の首を、もう片方の手で私の胸倉を掴む。
訳も分からないまま壁に背中をしたたかに打ちつけられ、その衝撃で一瞬だけ呼吸が止まった。
痛い、という声も、声にならないような声すらも発することを許さないかのように彼はそのまま私を壁に押し付け、私の首に両手を伸ばし、そのまま強く絞め始めた。
意図せず傷んだ床を踏んでしまったような音が、なぜか床からではなく私の首から聞こえた。軋んでいるのは骨なのか気管なのか、それともなにか別の身体の組織なのか。何にせよ、けっして人体から聞こえてはいけない音が自分の首元から発せられているのが分かる。
そのおかげで─この場合はおかげという表現は明らかに正しくないのだろうが─私は確信することができた。
殺される。
父は、この男は、私を殺そうとしている。
なぜ。どうして。どうして私が殺されなければいけないのだろう。自分の子どもを殺そうとするからには、何かしらの理由があるはずだ。
自分の子どもを殺す理由とはどういったものが挙げられるだろう、と私は今までにテレビや新聞などで垣間見た無機質な文面を思い起こす。育児疲れ。あり得ない。私はもうそこまで幼いわけではないはずだ。子どもから親への暴力。もっとあり得ない。私は一度も両親に暴力なんて振るったことがない。むしろその逆だ。だったら、私はなぜこうして首を絞められているのだろう。
誰も答えてくれることのない疑問が頭の中で浮かんでは消え、また浮かんでは消える。やっとの思いで宙へと浮かんだシャボン玉が、すぐさま弾けてしまうように。
私は父の顔を見上げる。
彼はその両腕で私の首を絞めつつ、血走った目で私を睨みつけていた。怒りという感情だけではけっしてそうはならないような、凶暴な目つきだった。やがて、私は彼が唸るように何かをぶつぶつと呟いていることに気がついた。
「─お前さえ」
どうにかして息をしようともがきながらも、私は父の声を聞き取ろうとする。生きるか死ぬかという極限の状況下に置かれると神経が研ぎ澄まされるのか、彼の言葉をはっきりと捉えることができた。
「お前さえ、いなければ─」
お前さえいなければ。
いやいや。
それをあんたが言うのはおかしいだろう。
なぜ私が今ここにいるのかは非常に明快だ。
父と母がセックスをした結果、受精し、母が妊娠し、産むという選択をしたから私が産まれたのだ。それ以上でもそれ以下でもない。だから私は今ここに存在している。だから今こうして生きているのだ。私が存在することを望まなかったのであれば、最初から産まなければいい。避妊でも中絶でも、何でもすればいい。
私さえいなければ。
私さえ産まれなければ、いつまでも妻とふたりきりで幸せな時間を送ることができたと思っているのだろうか。
私さえ産まれなければ、こうしてわざわざ殺す必要はなかった、などと思っているのだろうか。
─ふざけるな。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
声には出すことができない。なぜなら首を絞められているからだ。だから、心の中で何度も叫ぶ。
どうして私がそんな理由で痛みを受け続けなければならなかったのか。
どうして私がそんな理由で殺されなければならないのか。
どうして。
こんな人間が生きているのか。
私はこの日、初めて父に対して怒りと、そして殺意を抱いた。今までされてきたことに対する怒りと殺意ではない。今、この私の目の前にのうのうと存在していることに対する怒りと殺意だった。
消えてほしい。今すぐにでも。
気がつくと私は、自らの奥底に泥のように溜まっていた感情をすべて絞り出すかのように言い放っていた。
「─死ね」
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