第2話 母へ
私が父から暴力を振るわれている間、母は何をしていたか。
母は何もしなかった。何もせずにただ傍観していた。
もっと正確に言えば、父を止めるわけでも警察を呼ぶわけでもなく、ただ自分はこの場において無力であることを誇示するかのようにわざとらしく慌てふためいていたり、端から見ていて苛立ちを覚えるほどに弱々しく取り乱しているだけだった。
そして、私へ暴力を振るうことに満足した─もしくは単に飽きたり、疲れただけなのかもしれないが─父が同じ空間にいなくなると、母は「ごめんね、ごめんね」と涙を流しながら、私を強く抱きしめる。
身体に押し付けられる柔らかい感触と、肌にじっとりと纏わりついてくるような彼女の高い体温が、ただひたすらに気持ち悪かった。母から与えられる温かさは、私の心根を薄ら寒くするものでしかなかった。
母は情緒が不安定な女性だった。
一見すると、彼女は誰に対しても穏やかで控えめな人間だった。愛想が悪いというわけでもなく、かと言って無遠慮というわけでもない。無闇に人の領域に踏み込むことをせず、突き放すこともしない。
そして、母も父と同じくその年齢の割には若々しい見た目をしていたので、近所の評判も良かった。娘の私が言うべきことではないかもしれないが、少なくとも容姿という面では釣り合いの取れた夫婦だった。
ところが、私が彼女の意に沿わないこと─例えば母が「あなたのためになるから」と勧めてくるような習い事を断ったり、母とは反対の意見を言ったり、母自身で勝手に設定した基準よりも私のテストの点数が低かったり、父から暴力を振るわれた後に母から押し付けられる身勝手な愛情を拒絶したりすると、彼女は豹変する。
母は身体的な暴力を振るうことはない。ただ、私を傷つけるための言葉を延々と浴びせる。
あなたなんか産まなければよかった。こっちは産まれてくれなんて頼んでいない。どうしてこんな馬鹿な子に育っちゃったの。
直接的な言葉で責めることもあれば、回りくどい言い方をすることもあった。同じクラスの〇〇ちゃんはあなたと比べて立派なのに。どうせ産むなら〇〇ちゃんが良かった。おそらくは直接の面識がないであろう私の同級生たちを引き合いに出し、罵る。
不可解なことに、そういう時に母は怒りに任せているのではなく、いつも悲痛そうな表情を浮かべているのだ。私の言う通りにしておけば間違いはないのに。私は悪くないのに。なぜ私の言うことが聞けないの。どうして私の言っていることが分からないの。彼女の言わんとしていることが、そのわざとらしい顔から容易に汲めた。
彼女はきっと"理想的な娘を持つ母親"になりたかったのだと思う。
それなりの家庭で育ち、それなりの学校を卒業し、それなりの企業に就職し、結婚して専業主婦になった。それも女性としての幸せな人生のひとつであるはずだが、母にとってそんな自らの過去は満足できるようなものではなかった。彼女はもっと華やかで、誰からも羨まれるような人生を望んでいた。
けれど、人間はどう足掻いても過去には戻れない。とはいえ、今から人生を取り返すにはあまりにも遅すぎる。
では、どうするか。
母は自分が歩みたくても歩めなかった理想の人生を、娘である私に託したのだ。
母にとって私は"代用品"のようなものだったのだろう。自分の思い描いていた人生をもう一度歩ませるための代用品。だから自分の思い通りに動かない娘を矯正しようとする。たとえヒステリック的になってまでも、私自身を否定する。
そんな母を
父の中身のない言葉と薄っぺらい態度を母は甘んじて享受し、あまりにも分かりやすいほどに落ち着きを取り戻す。そんなやり取りを繰り広げている彼らに、私の姿は目に入っていないように感じた。
精神に極端な二面性を有する父と、情緒が不安定な母。
ある意味似ていて、そしてどうしようもないような夫婦から産まれた子どもが、私だ。
そんな両親に育てられると、いったいどんな子どもに成長するか。
気性の荒い、攻撃性が強く衝動的な性格。もしくは感情の起伏に乏しく、自分の殻に閉じこもっているような内向的な性格。もちろん一概には言えないが、そのどちらかに振り切れる傾向が強い。
その傾向に漏れず、私は誰にも心を開くことのない子どもだった。
ただ"そこに居る"だけで家族から傷つけられてしまうような環境で過ごしてきた私は、自ずと他人との接触を避けるようになった。私は、人が意識して感情を切り替える"間"が怖かった。
それまでは何事もなかったのに、何の前触れもなく敵意を向けられるあの瞬間。
何の予兆もなく私を攻撃することを決める、あの瞬間。
スイッチのオンとオフを人差し指で簡単に切り替えてしまうような、あまりにも軽すぎるその一瞬を恐れ、それならば最初から他人と関わらなければいいと私は心を閉ざした。感情のすべてを押し殺した。
これは家でも、そして学校でもそうだ。父や母のように、家庭の内外で人格を使い分けることができるような器用さを私は持ち合わせていなかった。
そういった子どもを学校という施設に放り込めば容易なまでにいじめの対象になりそうなものだが、幸いなことにと言うべきなのか、私は学校でいじめられるようなことはなかった。その代わりに、他の生徒と何か言葉を交わすこともなかった。
あいつに近寄りたくない、と感じさせるほどに私が陰鬱な雰囲気を纏っていたか。単純に嫌われていたのか。もしくは、あの時の私は話しかけるほどの価値もないと見られていたのか。何にせよ、私は教室の中で常に隔絶されているかのように孤立していた。
学校や教室だけではない。家の近くを歩いていても、今まで碌に関わったこともない大人たちが私のことを遠巻きに眺めながら、こう話しているのを聞いてしまったことがある。
両親に迷惑をかける、出来の悪い娘。
自分の娘がいかに至らないか。自分の娘がどのような失敗をし、どれほど自分たちの手間をかけさせたのか。虐待を行っているという事実を躾にすり替えるために。世間体を守るために。赤の他人に平然な顔をしてそういったことを述べることができる。私の両親はふたりとも、そういう大人だった。
私はただ黙って俯き、足早にその場から立ち去ることしかできなかった。
味方なんて、どこにもいなかった。
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