第1話 父へ

 今よりもずっと小さいころ、私は母に「どうしてお父さんと結婚したの?」と訊いたことがある。


 特にきっかけがあったわけではない。何となくだ。


 私の子どもらしい純朴な疑問に母はどこか嬉しそうな、それでいて恥ずかしがるかのような表情を浮かべた。そして彼女は、自分の夫との馴れ初めであったり、ふたりきりで旅行に行った話だったり、新婚当時の思い出などを饒舌に語り始めた。


 父の話題を振ると母は上機嫌になる。まだ幼かった私は、そんなどうでもいいようなことをきっと大事そうに頭に蓄えたことだろう。自分にしか価値が分からない宝物を、そっと机の引き出しの奥にしまい込むように。


 母の話は冗長だった。一言や二言で答えてくれればよかったものの、ふたりが出会ってから私が産まれるまでの経緯を詳細に知りたいわけではなかった私はとっくに興味を失っていた。それを母が察したはずもないだろうが、最後に彼女はこう言った。


「お父さんはね。昔からずっと優しくて、格好良かったんだから」


 私が初めて殺した人物は、その優しくて格好良かった父親だった。

 

 ◇


 確かに私の父は、母にとっては優しくて格好の良い自慢の夫だったのかもしれない。


 父は他の同年代の男性と比べても精悍な顔立ちをしていたし、どうやら勤めている会社でも順調に出世を重ねていたらしい。自治体や町内会のいかにも窮屈で面倒そうな行事にも、嫌がる素振りを見せずに積極的に顔を出していた。


初鹿野はじかのさんのお父さんってかっこいいよねー」


 当時の同級生だった女子たちが楽しそうに話しているのを耳にしたこともある。もしも彼が自分の父親ではなく同級生の父親だったとしたら、私も同じようなことを思っていただろうか。


 けれど、少なくとも私にとって彼は良い父親ではなかった。


 父は家庭内で私によく暴力を振るった。安直な言葉に言い換えてしまうと、おそらく虐待という単語が最もふさわしくなってしまうのだろう。


 身体を殴られたり、物を投げつけられることが多かった。硬い灰皿を投げつけられ、脇腹の辺りに痛々しいあざができたことがあった。火のついた煙草の先端を二の腕に押し付けられ、焦げて膨らんだような黒いあとができた。無理やり頭を押さえつけられ、たっぷりと冷水を張った浴槽に顔を沈められることもあった。


 ただし、顔だけは浴槽に沈められるようなことがあっても、例えば殴られたりといった、傷をつけられるようなことはなかった。暴力を振るっていることがすぐに明るみになってしまうからだろう。叩かれたり殴られたりする箇所は、衣服を着ることによって隠される範囲に限定されていた。


 よくわからない痣や、よくわからない傷だらけになった身体。それとは対照的に、傷ひとつない顔。洗面所で服を脱いで裸になり、鏡に映った自分の身体を目にしてしまう度に「歪んでいる」と思った。私の身体は異なる素材をぺたぺたと無造作に貼り付けたパッチワークのように整合性がなかった。シャワーを浴び、温かい水滴がゆっくりと傷口の上を流れると、言いようのない痛みと、表現しようのない虚しさを感じた。


 父が暴力を振るうのは私に対してだけだった。彼は自分の妻、つまりは私の母に対して手を上げるようなことはしなかった。


 どうして私だけが暴力を振るわれるのか、ということを浴槽に顔を沈められているときによく考えていた。冷たい水面に顔が浸され、呼吸することを禁じられたまま徐々に深く沈められていくと、複雑に絡まっている糸のようになった思考が徐々にほどけていくかのような、そんな倒錯的な感覚があった。


 今にして思えば、所詮そんなものは私の勘違いにしか過ぎなかっただろう。酸素を取り入れることができないのに脳が活発に働くわけがないのだ。けれど、私はその満足に働いていない脳で、文字通り必死に考えた。何度も、何度も考えた。


 私の態度がかんに障るのだろうかと、露骨なまでに下手に出て媚びを売るように接した。普段よりも強く腹を殴られた。私は床に倒れこんだまましばらく動けなかった。内臓が潰れたかと思った。


 私の存在そのものが気に食わないのかと、できる限り父の視界に入らないよう、家の中で影のように存在感を消すことに努めた。その日の夜、私は有無を言わさず家の外に放り出され、そのまま鍵を閉められた。


 近隣の住宅の窓から漏れている橙色の光。時間が経つにつれ徐々に減光していく街路灯。


 普段は意識することのない明かりがひとつずつ無くなっていく夜は、まるで永遠に感じられるかのように長く、この世界から自分だけが取り残されていくかのようだった。まだ大人ではない私は、自分もこのままあの明かりたちと同じように、この暗闇に呑まれて消えてしまうのではないかと恐ろしくて仕方がなかった。


 家に入れてもらえたのは翌日の朝だった。


 ごめんなさい。もうしません。


 会社へ出勤しようとしている父に、私は額を地面につけて泣きながら謝った。何が悪いのか、何をもうしないのか、自分でも分からないままに。


 彼は私に何も言わず、玄関で見送っている自分の妻に「行ってきます」と告げ、会社へと向かっていった。


 革靴と地面が擦れる乾いた音が、遠ざかっていく。それを耳にしながら、父は私のことを心の底から忌み嫌っているだけだという可能性にようやく思い当たった。それが私の中で最も腑に落ちた結論だった。


 なぜ嫌われているのかまでは分からない。けれど、一度その可能性に思い当たってしまうと、まるで寸分の狂いもなく型にはまってしまったかのように、他の可能性を思い浮かべることができなくなった。


 父の暴力に、然るべき論理は存在していない。従って、私にはどうすることもできなかった。

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