「ちぃ!」

 僕は叫ぶ。自転車を乗り捨てて、転がり込むように公園に入った。公園内には誰もいない。僕の声にキィという金属の軋む音と共にブランコを降りる天使がいた。

「セイ君、卒業おめでとう」

 僕の片割れ、ちぃ。僕の影の存在、ちぃ。この世界の偽りの登場人物。

 ちぃは嬉しそうに、でも悲しそうに僕を見つめる。外見に似合わない包容力を携えて。

「ちぃ、ありがとう。ずっと僕を守ってくれて」

「ううん。ちぃはセイ君の幸せが一番だから」

 ちぃは卒業式へと僕を導いてくれた。ストーカー天使じゃない。正真正銘の守護天使だ。これからも、ずっと。

「僕、戻るよ。『卒業式』を書くために。自分の人生を生きるために」

 だから、ちぃにも僕の書く世界を見て欲しかった。ここでたくさんの経験と、幸せと、勇気をもらって。みんなとまた会うための。僕がこれから生きていくための。「卒業式」という小説を。けれど、ちぃは顔を曇らせた。

「ちぃも読めたら良かったな」

「どういうことなんだ……?」

 そんな言い方。まるでちぃはこの世界と一緒に消えると言っているのと一緒だ。リュウや風上さんと同じように。いや、ちぃは僕が心の中で無意識に生み出した影の存在だ。消えてしまったら、もう二度と。

 それが分かっていながらもちぃは残酷な現実を告げた。

「セイ君を現実に返すには同じだけの代償がいるの。一つの人の魂が。だからちぃが代償になるの。一つの魂には変わりないから」

 ちぃはそれが自分の役目だと言っている。僕の影ごと背負ってこの世界から消えると。僕は、健気なのに、不公平な選択なのに、真っすぐと受け入れる天使を知っている。今なら分かる、あの児童文学の天使の選択を。ちぃはやっぱり僕が好きな天使の女の子に生き写しだ。

「ちぃもここでお別れなんだな」

「うん。ここでお別れ」

 その途端、ちぃは泣き始めた。ボロボロと大粒の涙を零し始めた。いつも笑顔のちぃらしくないのに、その涙は美しかった。

「嫌だよ……。本当は嫌なんだよ。ちぃだってセイ君と一緒にいたいんだよ」

「僕も一緒にいたいよ」

「何で、何で。セイ君だけ泣かないの。酷いよ、ずるいよ」

 ちぃが涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ポカポカと僕を叩く。でもその手は次第に行き場を失った。ずっと八歳児みたいにしゃっくりをあげて泣いている。

 僕はその手ごと、ちぃの涙ごと、ちぃの存在ごと抱きしめた。僕が今まで押しつけて、逃げていた分を受け入れるように。ちぃの体は僕より小さいのに、確かに重くて。そこに一人の人間が存在していた。

「ちぃが代わりに泣いてくれているからだよ。今までずっと」

 ちぃはビックリしたように涙が止まって、僕を見上げる。その顔は幼い頃の僕にそっくりだ。

 僕は染み込んでいくように思い出していく。ちぃという存在が僕の心にいたことを。僕の心に二人分の重さが、僕が手のひらから感じている重さがあったことを。

「僕が泣きそうな時、心の中で代わりに誰かが泣いていた。『大丈夫、私がここにいるからね。辛いことは背負ってあげるからね。だから安心して』って。僕を撫でていてさ。ちぃだったんだね、その子」

 いつしか聞こえなくなったちぃの声。いや、僕が自分の世界に閉じ篭ってしまったからだ。僕が勝手に押しつけて逃げたのに、それすらも見たくなくて、僕はただ理想の世界を追い求めていたんだ。

 初めて自分の存在を思い出されたちぃは、はにかむ。

「うん。だってちぃはセイ君の守護天使だもん」

 ちぃはふわりと浮かぶ。天使の翼を羽ばたかして。そして、僕の額にそっとキスをした。

 柔らかくて、どこか桜の香りと、甘い味がする。天使のキス。

「ちぃは、セイ君が、大好きだから。悪い子だから、影の存在にしかなれなかった。でも、やっと伝えられた」

 桜色に頬を染めて、唇を動かすちぃは僕の知らない女の子で。僕よりも大人に見えて。なのに、息を飲む美しさと純粋さが混合して。僕は一気に顔が赤くなった。

「それって……」

 言いかけた僕の口をちぃの小さな両手が塞いだ。

「セイ君! それ以上聞くのはデリカシーがないのです! そんな男の子は嫌われます! ちぃが言うから本当なのです!」

「分かった。聞かないよ」

 その慌てる姿に僕は笑いながら聞かないでおいた。

 ちぃの覚悟を無碍にしてしまうから。きっとその先を言わせないことで、僕に別の春が訪れる日を与えてくれたのだ。ちぃなりの切なくて、優しい餞別だ。

「セイ君、この先辛いことがあっても絶対にセイ君の味方はいるからね」

「うん。でも、僕には守護天使がいるから。僕の心から消えても、僕が覚えている限りずっと」

 ちぃの黒い瞳が潤んだ。その瞳には確かに僕の顔が映っている。卒業証明書を持って、ちょっぴり赤い顔をしている僕が。その姿は一瞬だけ「青林星也」ではなく「今元千晶」の姿になった。

 ちぃの口が少しだけ開く。何か言おうとしたけれど、首をぶんぶん振って、笑顔になった。

「それでは、ちぃの最後の力でセイ君を元の世界に戻します!」

「頼むよ」

 僕たちの間に突如、花吹雪が舞う。時季外れの八重桜の花吹雪が。降り注ぐ光と花のカーテンが僕たちを隔てた。

 もう、決して会えない別れを。そして、この世界からの卒業を。天使の羽が僕目の前で煌めくのは、この世界からの門出を祝っているのだろうか。

「卒業おめでとう」

 僕たちの声は深紅の花びらと一緒に白い光に溶けて消えた。

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