2

 その日の僕は自分のことでもないのに落ち着かなかった。

 リュウの推薦入試の合格発表だからだ。部屋で本を読んでいても集中出来ないからただ、ベッドに座ってぼーっと天井を見つめていた。

「ちぃ、リュウ合格するよな」

 思わず神頼みならぬ、天使頼みで聞いてしまった。ちぃは即座に答える。

「リュウ君なら大丈夫だよ」

「リュウだもんな。でも、やっぱり不安でさ……」

「天使のちぃが言うから大丈夫!」

「どんな理由だよ……」

 天使頼みでも能天気なちぃはどうなのだろうか。僕は勉強机の椅子に座りながらクルクル回転しているちぃにイラッときて背を向けた。

 リュウが受かるのは嬉しい。でも、何だかモヤモヤしている。分からない。

「星也! 友達から電話よ!」

 母親の怒鳴るような声が聞こえてくる。あれ? 携帯にかかってきていない。もしかすると携帯を忘れたのかもしれない。

 友達からの電話にそんな声で呼ぶなといういつもの苛立ちよりも僕は早く電話に出たいという気持ちでいっぱいだった。

「もしも……」

「オレ受かってタ!」

 リュウだ。リュウが声を遮って、電話に変わった直後、すぐ結果を知らせてくれた。

「良かったじゃんか!」

「ああ! セイとユミが勉強教えてくれたおかげだゼ!」

「そんなことないよ。リュウが頑張ったからだよ」

 僕は平然と言葉を返しているというのに、心の中は嬉しい気持ちとどす黒いベタベタしたものが覆いつくして、気持ち悪かった。

「それより、お前電話、携帯にかかって来ていなかったけれど……」

 僕の問いかけにリュウは「おっかしいナー。ちゃんとかけたゼ」と不思議そうに返す。けれど、リュウはすぐに喜々とした声で家に誘ってくる。

「セイ、今日オレの家でパーティーをするんだけど、来ないカ?」

 もちろん、と答えようとした僕の口は閉じた。母親がきつい目でこっちを見ているからだ。

「ごめん、今日行けそうになくてさ」

「そっか。じゃあ、ちょっと用事があるから来て欲しいんダ。十分で話し終わるからサ!」

 リュウはいつになく焦っている。リュウが焦ると言ったら宿題の提出期限やテストの赤点ぐらいだろう。リュウも割とマイペースな性質だ。あまり焦っているところを見たことがない。僕はそんなリュウの声を聞いているとどうしても行かないといけない気持ちになった。

「分かった」

「わりぃな、セイ」

「ううん。じゃあ、また」

 僕はそう言って電話を切った。母親が間髪入れずに尋ねてくる。僕が嫌になる不機嫌な声で。

「何、さっきの子?」

「クラスの友達。別に友達だっていていいじゃないか。今から図書館に本返しに行くから」

 今ここでリュウに会いに行くと言えば母親はいい顔をしないだろう。だから、嘘をついた。けれど、何度も使った嘘を母親が見破らないわけがない。

「そういって友達の家に遅くまで遊びに行くんでしょ?」

「違うって。本当にすぐ帰るから」

「じゃあ、五時までに帰るのよ」

 母親はいつもの三倍きつい声で僕に言った。明らか様にリュウのことが気に入らない顔だ。

 僕は適当に本を詰めた鞄を持って、家を出る。リュウの家までは学校の前を通らなければいけない。その時、風上さんが職員室に入っていく姿が見えた。

 「風上さん、どうしたのかな」

 「セイ君! 時間!」

 ちぃに急き立てられて顔を上げると、学校の正門に建てられた時計は午後四時十分。急がないと。ついてきたちぃも不安げな顔だ。リュウの家に行く途中の横断歩道で僕たちは鉢会った。

「セイ!」

「リュウ!」

 リュウが青になった横断歩道を渡ってくる。僕は自転車を降りて、スタンド状態にする。

「おめでとう! やっぱりリュウはすごいな」

「アリガトウ、セイ……」

 けれど、リュウの顔は固まっている。声も歯切れが悪く、アーとか、ウーとか、何か言い淀んでいる。

「どうしたんだ?」

「セイ。オレさ、ずっと言おうか悩んでたんだけどサ……」

「リュウらしくないって。お前ならすぐ言うだろ?」

 僕は普段を装って聞き返すと、リュウは真っすぐと僕を見据えてこう言った。

「セイ、一緒の高校に行かないカ?」

 僕は声が出なくなった。固まっている僕にリュウは言いにくそうに続けた。

「オレさ、海外生活長くて、この見た目だロ? だからさ、日本に来て同い年のトモダチいなかったんダ」

「えっ」

「後輩からはスゲーって目で見られるけど、セイみたいに仲良くなって、家に呼んでパーティーまでしたの、日本に来てからなくってサ。こんなに仲良くなったの、セイが初めてなんダ。スペインで仲良くなったトモダチも日本に引っ越して一年で疎遠になっテ。だから、高校離れたらセイとも友達じゃなくなるって、すっげー辛いんダ。情けないけどサ」

 僕は心の黒いベタベタの原因がようやく分かった。僕もリュウと疎遠になって、いつか友達じゃなくなるのが怖かったんだ。

 リュウは野球に集中して、絶対大活躍だってするし、いい奴だから僕よりもっとリュウに似合う友達だって、彼女だって出来る。そうなったら僕は、一人になる。それが怖かったんだ。だから、心のどこかでリュウが僕と同じ高校に行くことになったらって考えていたんだ。ここでリュウの言葉を受け入れてもいいかもしれない。一般入試だってまだ間に合う。

「ごめんナ、セイ。オレ、本当に酷い奴ダ……」

 自分を責めているリュウの顔を見て、僕は自分の心の内何て言えなかった。僕の方が酷い奴だって知られたくなかった。

「そんなことないよ。進学のことは……考えさせて」

 だから今はこれしか言えなかった。僕はずるい奴だから。

「アリガトウ。でも、セイの好きな高校に行って欲しいからナ!」

 リュウの夕焼けに輝く笑顔は今の僕の心をチクチクと刺して痛かった。

「じゃあ、母さんがうるさいから……」

「また学校でナ!」

「うん」

 僕は逃げるように自転車でリュウから離れていく。一刻でも早く、今は現実から逃げたかった。

「セイ君」

 ちぃが声をかけるが僕は無視を貫く。学校の門を通りかかった時だった。

「セイ君! 止まって!」

 ちぃの言葉に前を向くと人がいた。急いでブレーキをかけると、間に合った。冷や汗がどっと沸く。僕がまた人殺しになってしまうかもしれない可能性が一気に染みる。

「大丈夫ですか!」

 僕が自転車を乗り捨てて、駆けつくとそこにはしりもちをついた風上さんがいた。

「風上さん……」

「青林君……」

 僕は風上さんの手を取って起き上がらせる。

「大丈夫? ごめん、急いでいて」

「大丈夫です。わたしの方こそ前をよく見てなくてすみません……」

「土曜日に学校って……何かあったの?」

 僕の問いかけに風上さんは黙り込んだ。僕と目が合うとサッと目を逸らす。何かしただろうか。僕は今の風上さんがとても不安定に見えて、声をかける。

「僕でよければ、少しだけど聞くよ」

「でも……」

 風上さんは断ろうとしたけれど、首をぶんぶんと横に振って顔を上げる。その顔は真剣で僕を見据える。

「わたし……青林君が好きです」

 突然の告白に僕は思考停止してしまった。風上さんが僕を好き? 冗談ではないのが顔を見れば分かる。でも、理由が分からなかった。何で、僕みたいな奴を。何で、今。

「わたし、実はずっと青林君が好きだったんです。最初はわたしの好きな作家さんを読んでいる人がいるって思っていたんです。けど、優しくて、わたしみたいな人にも普通に接してくれて。ううん、青林君はどんな人のことも真っすぐ見ている。だから、好きになったんです」

「気持ちは嬉しいけれど……どうして今……」

 僕の言葉に風上さんは顔を暗くした。重い空気が流れる。一分が十分にも一時間にも感じる。風上さんは小さな口を開いて切り出した。

「ごめんなさい、青林君。わたし、ずっと嘘ついていたんです」

「えっ」

「わたし、四月から東京に引っ越するんです。高校も、東京の私立高校に。東京に、結婚相手がいるので」

 まだ予定なんですけどと、つけ加える風上さん。僕には別世界の話と情報量に頭がついて行かなかった。

「結婚相手が元々いるのに告白なんかしておかしいですよね。でも、両親に決められた相手なんです。引っ越しも結婚相手も三年生になる前から決まっていたんです」

「でも、風上さんの意志が……」

「はい。仕方ないことだと。大学を出たらすぐ結婚予定で、知らない場所に引っ越して。わたしの人生は両親のために、家のためにあるんだと、諦めてました。でも、青林君と一緒に本の話したり、文化祭の準備したり、丹波君とも一緒に色んなことをして。わたし、楽しかったんです。これから自由のないわたしにとって最後の青春だって」

 最後の言葉は僕にも同じことだ。こんな満ち足りた学生生活も、青春も、この先あるわけないだろう。だから、悔いなく日々を生きたいし、それ以上にこの時間に縋っていたい。

「最後……」

「はい。だから、この気持ちも伝えたかったんです」

 夕焼けに照らされて笑う風上さんの目じりには涙が滲んでいる。僕は、風上さんの覚悟を知らなかった。それなのに勝手に同じ人だ、何て思い込んで。僕は酷い奴だ。だから、

「ごめん、今は答えられないから時間が欲しい」

 と、風上さんの気持ちを汲んだ言葉も出てこなかった。

「謝らないでください。わたしのわがままなので」

 風上さんは僕を責めない。その優しさが僕の心をチクチク刺して痛かった。クラクションが僕たちの間に鳴り響く。高級車が近くに停められていた。

「迎えが来たので帰ります。また、学校で」

「うん」

 風上さんは車に乗って帰っていく。その距離は風上さんが引っ越しをしてしまう未来以上の遠さを痛感させる。

 いつも明るい太陽みたいなリュウ、優しく照らしてくれる月みたいな風上さん。その二人がいなくなる。みんなバラバラの道に進み、いつか会えなくなる。その可能性は百と同等だ。

「ちぃ、このまま三年生が終わらなければいいな」

 だから、僕はこう呟いてしまった。永遠の青春、永遠の中学生活を。

「セイ君……」

「帰ろっか」

 僕とちぃも自分の家に帰る。朱い空には、夕焼小焼が流れていた。

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