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「お兄ちゃん! この絵本下さい!」
五歳ぐらいの男の子が角のすり減った絵本を僕に渡してくる。この絵本は市立図書館で廃棄される予定だったものだ。僕はその絵本を用意していた紙袋にメッセージカードと一緒に入れる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
「ありがとうございます」
親子は僕にお礼を言うと、男の子は紙袋を受け取ってぶんぶんと振り回しながら母親と教室を出る。
これで、また一冊本が新しい持ち主へと旅立った。
図書委員が文化祭で借りた部屋は第三多目的教室。三年二組の隣の部屋にあって、普段は三年生の物置部屋と化している。
文化祭前日の一日丸ごと用意された準備時間を図書委員で片づけて、二つのコーナーに分けた。
一つは「本の里親」。市立図書館から集めた廃棄予定の本を無償で譲る企画。文化祭までの準備期間で廃棄予定の本を専用のクリーナーで綺麗にしたり、敗れている所には保護シートを貼ったりした。こうして綺麗になった本を、図書委員が一言ずつお礼を書いたメッセージカードと一緒に渡すのだ。無償で本がもらえるということで、午前中で半分以上の本は無事に旅立って、僕が本の里親の受付担当時間になった二時頃にはあと十数冊ほどしかない。
「セイ君、大繁盛だね!」
黒板下の台に座って本を吟味したり、もう一つの展示である「お勧めの本コンテスト」に票を書いている人たちをちぃは見物したりしている。
「お勧めの本コンテスト」は風上さんのおかげもあって、あの日無事に集計は完了。
その後、図書委員が校内の投票数からお勧めの本を五冊に決めて、あらすじやお勧めポイントを書いた紹介文と共に黒板に貼っている。図書委員には二年生の美術部がいたので、絵を頼むと若者の心を掴むキャラクターデザインが効いた挿絵を描いてくれた。これには他の学年の生徒も「すげえな」や「上手!」と足を止めて褒めている。
僕と対称の位置にある受付には委員長が投票の紙を回収して集計している。にっこりと張り付けた笑顔で、
「ありがとうございます!」
と、紙を受け取っている姿を見て、心の中で「土曜日の集まりには来なかったくせに」と、ぼやいた。
「あの委員長えらそうでちぃ嫌い!」
お前もそう思うか。やっぱり小学校からの仲だけある。心の中でうんうん、と頷く。するとガタリと委員長が席を立った。
「青林君」
「は、はい」
やばい。悪口言っているのがバレたか。背中にじわりと汗が出てくる。すらりと伸びた二つの足。膝上の短いスカート。僕は口の中がザラリとした。心臓が鷲掴みをされたように痛い。
「そろそろ交代の時間よ。私が次の人来るまで見ておくから……あ、来た」
委員長が入り口へと目をやると風上さんが入ってきた。
「すみません、遅れました」
「ううん。大丈夫だよ。引き継ぎをしますね」
二人で受付に行って引き取られた本のことや、残りの本、どこまで署名をしてもらったかなど簡単な引き継ぎをした。
「そろそろ、軽音部の演奏始まるよ!」
早くと、ちぃが騒いでいるので僕は部屋を出ようとする。振り返ると、風上さんが残された本にどこか悲しい目をしていた。その先には僕の知っている名前があった。あれは僕と風上さんの共通点。風上さんを知るきっかけにもなった作者。僕はその本を手に取って風上さんに渡した。
「これ、下さい」
「えっ」
「セイ君!?」
どこか裏切られた声を出しているちぃをよそに僕は本を受け取るのを待つ。風上さんはビックリしながらも紙袋にA5サイズの本とメッセージカードを入れて震える手で差し出す。
「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ」
お礼を言うと風上さんはホッとした顔を見せた。紙袋を持って第三多目的教室を出る。本館への通路を渡り、本館の二階へと階段を上っていると清水先生とすれ違った。
「青林君、文化祭楽しんでいる?」
今日も赤い口紅が決まっている清水先生。いつもの紅い口紅とタイトスカートは元スケバンと聞くと合点がいく。長いスカートの反動で今は短いのを履いているんだな……と。清水先生なら丈の短いスカートでも怖くない。
「はい。気になった本をさっき譲ってもらいました」
「毎年図書委員、面白そうな出し物考えるね。特にお勧めの本コンテストが好きだわ」
「その出し物風上さんが考えたんです」
僕がその時のことを話すと清水先生は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。けれど、噛み締めるように「そうか」と微笑んだ。
「実はな、風上さん……あんまり生徒のプライバシー言うのもいけないけど、二年生の時保健室登校だったのよ」
「えっ」
保健室登校という言葉に何故か体が強張る。ちぃは心配そうに僕の肩を掴んだ。
「風上さんとは小学校違うから知らないだろうけど、ここらでは結構有名な家でね。だから、お嬢様だってクラスの女子からいじめられていたの」
「そうなん、ですね……」
「でも体育祭の時、青林君が保健室に連れて行ってくれようとしたでしょ。感謝しているって。あの子、突き放すことを言ったの、今でも謝れていないって気にしていたけど」
そうだったんだ。僕はちょっと安心した。体育祭の時、僕は出しゃばったことをした気がして風上さんとは体育祭の話を避けていた。でも、少しでも気持ちが楽になった。身勝手な正義感に浸っているだけかもしれないけど。
「いえ、気にしていないんで」
「そう? まあ、青林君はそんな生徒じゃないしね。あの子のことよろしくね」
「はい」
そう言うと清水先生は手を振りながら去っていった。すると入れ替わるようにちぃが僕の前に立った。
「セイ君、体が震えているよ」
「へ?」
言われて気づいた。膝が震えている。何でだろう、今とてつもなく恐怖が僕の体を埋め尽くしている。僕はその恐怖を追い払うように階段を駆け上る。そして、第二多目的教室に入った。
「どうしたの? リュウ君と午後も一緒に文化祭見て回るんじゃなかったの?」
「軽音部の出し物が終わるまでは一人でいるのもいいかなってさ」
そんなの建前だ。今、無性に一人になりたかった。リュウの前でまたさっきの恐怖が来るのも困るから。
さっき譲ってもらった本を開きながら僕は軽音部の演奏に耳を傾ける。ボロボロになった表紙は全面補強シートが貼られている。
「……うん。やっぱりこの世界は優しいね」
僕は最初の一文から感じた世界に頬を綻ばせる。どこか懐かしい文体だ。知っている作者でも、読んだことがないのに。
「セイ君。一つ聞いていい?」
「どうしたんだ?」
「セイ君は……この世界が優しいと思う? この世界で良かったと思う?」
行儀悪く机に座ったちぃはえらく神妙だ。いつものあけすけで、精神年齢が出会った時と変わっていない八歳児で、セイ君、セイ君、とうるさいちぃらしくない顔だ。どこか思いつめているようにも見える。
この世界が優しいか。天使に聞かれるとよけい、この世界は本当は、理不尽で穢くて、歪んでいるのではと思ってしまう。でも、僕にはかつてないほど、この世界が優しくて、楽しくて、幸福に包まれている。リュウという友達がいて、まだそんなに親しいわけでもないけれど同じ本好きの風上さんというクラスメイトもいる。家のこともあんまり気にならなくなってきた。
だから、この世界に僕は、ずっと……。
その時、僕は一気に背筋が凍った。また理由もない恐怖が身体を蝕んで、見えもしない怪物が襲ってくる。僕は本を抱えて震えた。
「大丈夫!? セイ君!」
ちぃが僕の頬を包む。小さな手。天使の翼。女の子のちぃ。ちぃは死んでいる。その事実に僕は更に怖くて仕方なかった。誰かがまるであざ笑っている視線を感じる。その恐怖はあのスカートの形をしている。
「千尋、僕さ……丈の短いスカートの女子、苦手なんだ」
丈の短いスカート。理由なんてないはずなのに、僕には目を逸らしたくて、心の闇を引き出すカギの形をしていて。そのカギで開けられた途端、僕の「何か」が崩壊すると、思考がいつも警告音を鳴らしている。
「何もされたわけじゃないのにさ。いじめを受けたりとか、目をつけられたりとか。でも、僕は近づきたくないんだ」
「怖いものはあって当然だよ。ちぃにも怖いものあるから」
「お母さんのこと?」
思いつくと言えばそれぐらいだ。ちぃの母親の理想を押し付ける教育。ちぃはそれでも自分を貫いた。でも、ブラウスのサイズは変わらない。ちぃは首を横に振った。
「怖いものは……今は、ないの。セイ君と同じ。今も、これからも、きっと」
ちぃの言っていることはよく分からない。でも、やっぱりどこか悲しそうだ。理由はこれも分からない。腐れ縁でも、すぐに顔に出やすいちぃの性格でも、今回ばかしは分からない。
ちぃの姿は逆光で神々しく見えるはずなのに、その存在を消してしまう矢に見える。
いつの間にか軽音部の演奏は終わっていて、最後の出し物である吹奏楽の演奏が、世界の終焉に天使が吹くラッパの如く流れていた。
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