2

 八月もやってきた昼下がりの図書室は夏休みで誰もいなくて、涼しくて、静かだった。

 今日は図書委員である僕の当番の日。朝の九時から四時までという地味に長い時間、図書室にいないといけない。ただし、誰もいない時は宿題をしたり、本を読んだりとしていてもいいのだ。食事は司書の先生が使うカウンターの奥にある通称「司書室」を使うことになっている。

「漫画ないのー? ちぃ、暇だよぉ」

「じゃあ、来なかったらいいじゃないか」

 図書室のカウンターで本を読みながら当番をしている僕にちぃはむぅっとフグみたいに頬を膨らました。

「セイ君のいけずー!」

 そうやって図書室の棚の中へと飛んでいった。拗ねているのだろう。最初は一番壁側の本棚に隠れてしまったが、時々こちらのようすを覗いている。

 ちぃは守護天使だから、基本的に僕と一緒にいる。学校も家の中でも。ただし、お風呂などプライベートは邪魔するなと言ったし、ちぃもそこまでストーカー天使ではない。時々神様に報告するらしく、いなくなる時がある。神様だから僕たちの様子見えているんじゃないのかと、ツッコミを入れたくなるが、止めておいた。関わったら最後、僕の願いは叶わない予感がしたからだ。

 時計は十二時半……。そろそろお昼の弁当を食べたいけれど、司書の先生はまだ近くの図書館と連携している本の移動から戻ってこない。一時には帰ってくるだろう。司書の先生はどこかのんびりとしているから仕方ない。僕は本へと目を向け直した。

「あの。返却いいでしょうか?」

 ページをめくる音に消えてしまいそうな小さな声。顔を上げると同じ図書委員の風上さんが三冊、分厚い本を抱えていた。

「あ、はい。少し待っててください」

 僕は三年一組と書かれた仕切りのある箱を取り出す。カ行には「カザカミ ユミコ」と短歌の様に字の流れが美しい字で書かれた貸出カードが最初にあった。

「三冊全てですか?」

「はい」

 僕がカードを渡すと、風上さんはすぐにカウンターに置かれたペン立てからボールペンを取って、返却日に日付を書いた。スッとカードを差し出され、僕は「確認」と書かれたハンコを返却日の隣のマスに押した。風上さんから本を受け取ろうとすると、風上さんは何か言いたげに口を開いたり、閉じたりした。

「どうしたんですか?」

 尋ねると風上さんは大きく肩を震えさせる。オーバーリアクションに驚きながら、言葉を待っていると言葉の破片を落としながらこういった。

「あ、う、そ、その……迷惑、ではなければ……じ、自分で、元の場所に返します。そ、そ、れに、お昼、だから……その……」

 時計を何度も見ながら話す風上さん。風上さんはあがり症なのだろう。既に顔が赤くなっている。

「もしかして、お昼食べている間、当番変わってくれるのですか?」

 風上さんは絡繰り人形みたく何度もカクカクと頷く。彼女なりの善意なのだろう。ここは有難く受け取ろう。

「ありがとうございます。すぐ食べるんで」

「は、はい! ごゆっくり、どうぞ!」

 入れ替わるようにカウンターのバネが歪んだ椅子の主が変わった。

 むっとした司書室で、僕は日焼けした本と埃がついている机を弁当が置けるだけ綺麗にして、お昼を食べる。ちぃはまだ拗ねているのか戻ってこない。まあ、ちぃのことだからすぐにケロッとした顔で「セイ君~」と話しかけてくるだろう。

 弁当は白米が詰まった一段と、卵焼き、お徳用パックの肉の炒め物の常連に、冷凍食品が隙間を埋めている。

 図書委員になるのはこれが初めてだった。本は好きだ。だから図書室内の興味がある本はどんどん借りた。おかげで司書の先生に名前を憶えられている始末だ。

 図書委員になったら? そう、何度も尋ねられたことがある。でも、一年、二年と図書委員に空きがなかった。目立ちたくない僕は誰かと争ってまでも僕は委員会に入る気はなかった。でも、三年生の一学期。図書委員に空きがあった。

 普通、内申書のことを考えて、委員会に入るがクラスのメンツは委員会より部活で成績を残すために夏休みに行われる試合に全てをかける、言わば推薦組が多かった。それだからだろう、意外とすんなりと目立つことなく僕は図書委員に立候補出来たのだ。その後、初めての委員会で同じ一組の図書委員となった風上さんの名前を知った。

「やばい、早く食べないと」

 僕は急いで弁当をかき込む。そういえば三年連続図書委員の風上さんがいくら慣れているとはいえ、今日の当番は僕だ。

 弁当を食べ終え、水筒のお茶を二口飲み、学校指定のリュックサックに弁当を入れて僕はドアを開ける。

 そこには別の本を読んでいた風上さんがいた。僕の猫背と違って、風上さんは背筋がすらりと伸びている。

「遅くなってすみません」

「いえ、全然、遅くないです」

 先ほどより、落ち着いて話す風上さん。変わらず声は小さいけれど、気品がある。

「当番に戻るので。ありがとうございます」

 風上さんから席を代わり、また本に戻ろうとすると視線を感じる。風上さんが僕をじっと見ていた。振り返ると風上さんは僕の持っていた本を指すように手で示した。

「その、本……いいですよね」

「これ? 最近、買った好きな作家さんの新作で。風上さんも好きなんですか?」

 文庫本は親しみやすく、けれど淡い絵柄の表紙で飾られている。

「わたしも、その作家さん好きで……。最近は別のジャンルを書かれているので、ここ数年の作品は知りませんが、過去作は全て読みました」

「そうなんですね。僕は逆に最近の作品しか知らなくて」

 この作家さんは僕が中学二年生のちょうどこの時期に知った。

 僕は中高生に人気である異世界や明るい青春ストーリーのライトノベルより、最近主流になりつつある文学とライトノベルの中間点ぐらいの作風の本が好きだ。この作家さんもとある出版社で主に一冊で完結する文庫本をいくつか出版している。内容はどこか切ないなのに文体が優しくて読みやすいのが特徴の作家さんだ。

「あの、過去作品ってどんな感じですか?」

 思わず気になって聞いてみた。風上さんは嬉しそうに微笑みながら、思い出すように間を置いた後、教えてくれた。

「今はレーベルさんが別の名前になっているんですけど、児童向けのお話を書かれていたんです。児童向けと言っても一冊が分厚くて、文量が多めなので、好みが分かれるんですが、私は好きです。どれも優しいお話なので」

 ちょっと意外だった。今は一冊にまとまる話を書いている作家さんが、過去作品は長い作品を書いていたとは。

「でも、優しいところが売りの作家さんだよね」

「そうなんです!」

 突然の勢いある声に、風上さんは我に返り、

「すみません……」

 と、本に隠れるように目線をずらした。

「大丈夫だよ。僕も本のことを話すと盛り上がるので」

 風上さんは意外そうに目を開く。そして、あたふたと次に借りる本を持った。

「あ、あの、今日はこれで帰ります。また、学校で……」

「また、学校で」

 こくりと、頭を下げて風上さんは帰っていった。入れ替わるように司書の先生が帰ってきた。

「ごめんね、青林君。今からお昼休憩とってください」

「いえ、もう食べたので」

 司書の先生は首をかしげたが、追及はしてこなかった。

 こうして僕は四時まで司書の先生の手伝いをしながら当番をした。

 その間、ちぃは一度も姿を見せなかった。


 四時が来る前に、司書の先生は待たせてしまったからと早めに当番を上がらせてくれた。強い日差しが照りつける中、駐輪場へと向かっているとようやくちぃが出てきた。

「セイ君、お疲れ様なのです」

「お前どこ行っていたんだよ」

「ちぃは空気を読む天使なのです」

 全く意味が分からない。役目はどうしたんだと言いたくなったが、ちぃのマイペースは今に始まったことではないのでスルーしておいた。

 ちぃは僕の周りを飛んでいるが、話しかけてこないし、たまにしてくる妨害……頬や髪をいじるのもしてこない。というか不機嫌オーラが出ている。

「ちぃ。僕、悪いことでもした?」

「何でもないです」

「じゃあ、どうしたんだ」

「乙女心はセイ君には分からないのです」

 はあ。じゃあ男の僕には一生分からないであろう。不機嫌オーラを放つ天使を連れていると後ろから肩を叩かれた。

「よお! セイ」

「リュウ」

 部活のランニングをしているリュウだった。グラウンドには野球部のユニホームを着た部員が同じように走っている。リュウのユニフォームは泥だらけで、腕の所に赤いのが……。赤い!?

「リュウ! 赤いのがユニホームについている!」

「え? ドコ?」

 僕が指した所、リュウの膝からは血が出ていた。土で汚れていて、少し乾いている。

「あー、イタイと思っていたらこれカ」

「保健室行けよ!」

「練習のいいところだったから抜け出しづらくてサ。忘れていタ」

 このどこか抜けているところが、ちぃと同じ匂いを感じる……。よく言えば寛容というか野球バカなのがリュウの個性だ。

「保健室行くカー」

 リュウは後ろから来ていた後輩に保健室へ行くことをコーチに伝えてもらうよう頼むと、保健室へと向かう。僕も気になって一緒に行くことにした。

「清水センセー! いねぇノー?」

 窓から呼ぶと、隣の外扉が割れそうな音を立てながら開いた。

「丹波ぁ! また怪我したんか!」

 怒声と共に出てきたのは保健室の先生の清水先生だった。ハープアップの髪に、アーモンド形の一重、女性にしては高い身長というモデルのような容姿とどんな生徒にも平等で丁寧な対応の良さから人気のある先生だけれど……。こんな怖い人だとは知らなかった。

 清水先生は僕に気づくと荒々しい口調が、僕の知っているものに変わった。

「あっ、青林君もいたの。驚かせて悪いね」

「セイ、清水って本当はこんなセンセーなんだゼ。昔はスケバンだったから、怒ると怖えんダ」

「それ以上言うと染みる消毒液つけるからな!」

 清水先生の声はハリがあって確かにスケバン時代の面影がある。隣でちぃが僕の後ろに隠れる。

「ちぃ、あの先生怖い……」

「ん? 誰か、何か言った?」

 清水先生は辺りを見渡す。もしかしてちぃの声が聞こえていたのか!? 僕はちぃにアイコンタクトを取り、その場から離れてもらう。

 清水先生はもしかするとちぃの姿や声が聞こえる初めての人物かもしれない。天使を連れていることがバレたら面倒なことになると僕の目立ちたくない警告音が鳴り響く。

「何も言っていないですよ」

 僕は笑顔を張り付けて凌ぐ。

「空耳か?」

 清水先生は首をかしげながら僕たちを保健室に入れた。そして、開始一秒で、

「丹波ぁ! あれだけ怪我したらすぐ水で洗えって言っているだろ!」

 リュウの怪我の放置を知った清水先生は怒鳴る。保健室の壁がワンワンと震える。

「夏場はあれだけ菌が繁殖するから早く水で洗えって言ったよな!」

「ハイ、サーせんしタ」

 いつもの会話なのだろう。僕とちぃの会話みたいだ。清水先生が一瞬、ちぃに重なって見える。

「え?」

 僕は瞬きを繰り返すとそこにちぃはいない。清水先生がリュウを怒っている姿しかない。茫然としていると清水先生は僕に話しかけてきた。

「連れてきてくれてありがとう、青林君。丹波は集中するとすぐ忘れるから」

「いえ、それほど野球が好きなんだと」

「アリガト、セイ!」

「お前は少しぐらい反省しろよ」

 はい、消毒は終わったと、片付けをする清水先生に僕は先ほどのことを尋ねた。

「あの……先生って霊感あるんですか?」

「へ? アタシ、そういうの信じていないよ。でも青林君といるとなんか寒気がしたり、声が聞こえてきたりするのよね。五月の時もそうだったし」

 うーんと唸る先生。さっきは気のせいか偶然だろう。ちぃは僕以外に見えることも聞こえることもないのだから。

「ヨシ、オレは部活に戻るナ!」

「怪我するなよ、リュウ」

「今日また来たら染みるのにするからな」

 清水先生の脅しにひぃっと悲鳴を上げたが、すぐにリュウはランニングへと戻った。飄々としているが、意外と真面目なのがリュウだ。練習も出来るだけ怪我ごときで抜け出したくないのがその背中まで汚れたユニフォームと走っていく姿で伝わる。

「セーイ! もうすぐ決勝戦あるから、見に来てくれよナ―!」

 と、思ったらこうだ。思考と行動が脊髄反射のリュウらしい。

「分かった! 後で連絡してくれよー!」

 そのようすに清水先生は「丹波らしいな」と、笑っている。

「じゃあ、僕も帰ります」

「はい、さようなら。気をつけて」

 清水先生は、今度は静かに扉を閉める。僕は自転車置き場に向かう。保健室から離れるとちぃが戻ってきた。

「ビックリしたねー」

「まさか、清水先生に声が聞こえるなんて思わないしな」

「おかしいなぁ。ちぃの姿は守護対象のセイ君にしか見えないのに」

 ちぃは何でだろうと、考え込む。難しいことは考えない主義のちぃが考えるのだからよほどのことだろう。まあ、人間の僕には知る由もない世界の話だ。僕は財布を取り出して、所持金を確認する。よし、たまにはスーパーに寄ろう。この時期だからアレが食べたい。

「帰りにアイス買っていくか」

「ほんと!? じゃあ、パピコ! シェアしよ!」

「人のアイス取る前提かよ」

 やっぱりいつものちぃだ。あの不機嫌さも、清水先生のこともきっと偶然だろう。

 きっと夏の陽炎と同じだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る