二章 八月の田んぼと擬人法使いセイ君

1

 教室から蝉の鳴き声が聞こえてくる。鳴き声からしてアブラゼミだ。蝉の鳴き声は一番ツクツクボウシが分かりやすい。あの妙に耳に残る鳴き声を聞いていれば自然と覚えてしまうのだ。

「授業の前に小テスト返すよー」

 ボーイッシュな国語の先生がわら半紙を見せる。教室は一斉に騒がしくなった。

「えっ、マジで自信ないんだけどぉ」

 真ん中の席。長いまつげに気のきつそうな目。丈の短いスカートの女子が零す。

「じゃあ、アンタから返すからね」

「ええー!」

 ほら早く取りに来なさいと、言われて渋々取りに行った女子生徒は自分の点数を見て叫んだ。悲鳴に近い叫びだったことから恐らく点数が悪かったのだろう。

「次、青林」

 出席番号からして一番の僕はすぐに呼ばれた。小テストなので五十点満点中、四十七点。なかなかに良かった。今の時期はちょうど表現技法の勉強だ。日頃本を読んでいるのが役に立った。

「セイ君頭いいもんねっ!」

 隣からちぃがテストの点数を褒めてくる。少しだけ浮いているのをいいことに点数を勝手に見たので、後でデコピンでもしておこう。

「惜しかったな。次は満点取れよ」

 国語の先生は口調もカッコいい。声も低めなのでさまになっている。

「はい。ありがとうございます」

 当たり障りのない返事をして僕は席に戻る。その間も次々とテストは返されていく。

「風上、さすが今回もいい点だな」

「ありがとうございます」

 風に溶けてしまいそうな小さな声で返事をするのは同じ図書委員の風上さん。ちぃが「あの女の子本が好きなのかな」と言った人だ。積極的に挙手をしないものの、風上さんが当てられた問題を解けなかった姿は見たことがない。常に首席だと、噂で聞いたことがある。

 クラスメイトの名前は七月に入ってやっと覚え始めてきた。聞き馴染み出した名前がまた呼ばれる中、名前を呼ばれた瞬間うっと唸る生徒がいた。

「おい、丹波。どうした。そんな怖い者でも見た顔をして」

「イヤ。今のセンセーの顔、コーチより怖えっス」

 どこか日本語の発音らしくない声変わりした低い声。この生徒はよく覚えている。下駄箱で危険をすぐ察知した……つまり僕の苦手なタイプの人間だ。

「この点数で怒らない教師が逆にいないよ」

 丹波君に渡されたテスト用紙はチラリと点数が見えてしまった。五点。怒らない教師がいたら見てみたい。

「あーヤベっ」

「次の期末テストその点数だと再テストするからな!」

 危機感のない反応に国語の先生はとうとう怒った。名前を呼んだ時から既に立っていた青筋が痙攣している。

「丹波だけじゃないからな! 次のテスト五十点以下だと再テストするからな! 問題は今までの小テストから五十点は出すからとにかく一夜漬けでも暗記したら合格する!」

 よし、いいことが聞けた。これで五十点は確実だ。最後の文章問題を除くと配分からしてあと二十点は他の問題だから八十点は平均として取れるだろう。

 心の中でガッツポーズをしているとクラスの一部からは悲鳴が聞こえた。あの女子と同じグループで丈の短いスカートの女子たちも、丹波君もだ。

 僕は悲鳴を聞かないふりをして、教科書を開き始めた。


「セイ君、今日はどっか寄ろうよー。部活ないじゃんー」

 HR後の自転車置き場。図書室に本を返していると人が集まる時間を過ぎていたのが幸いした。こうしてちぃに話しかけられても返事が出来る。ちぃの姿は僕以外には見えていないらしく、素通りしてしまう。ぶつかると心配した時期もあったが幽霊のように透けてしまう。それでよく僕を運べたと思うが、僕だけには例外で触れることが出来るみたいだ。

「いや、僕は帰宅部だから」

 入りたい部活も特にないのでその時間を本屋や図書館、景色を見るのに使っている。けれど、今週はテスト週間だ。学校がテスト勉強にと部活の時間をテストが開けるまで中止し、その分帰宅時間が早くなっている一週間。三年生の一学期は進路に関わってくる重要な時期だ。最後の中学生活だからと、イベントやら文化祭やらに遊び惚けたくない。ただでさえ、僕は他の人より劣っているのだから。

「でも、ちぃは一緒に友達と帰ったり、勉強したりしてもいいと思うよ」

「友達いないから」

 僕がスパンと話題を終わらせる。ちぃは事情を知ってか口を閉ざした。

「オイ! 青林!」

 いきなり後ろから声をかけられた。背筋がゾワッとする。ちぃとの話しているところを見られたからではない。苦手な属性の人だからだ。振り返ると、学校規定のカッターシャツのボタンを二つ外し、中から赤いシャツが見え、あの琥珀色の目をした男子生徒がいた。丹波君だ。

「あー! 五点の丹波君だ!」

 ちぃがとんでもなく失礼な発言をする。ちぃが天使で良かったと安心した日は今日ほどないだろう。何しろ、野球で鍛えられた腕で殴られたらたまったもんじゃないし、ああいう属性の人に目をつけられると面倒だからだ。

 悲しきかな。なかなか現実はしょっぱいものだ。丹波君は僕を見るなり頭を下げてきた。

「イキナリでわりぃけど、オレに国語教えてくれ! 頼ム!」

 いきなりだ。いきなり過ぎる。しかも相手は僕の苦手な属性だ。頭を下げられても関わりは出来るだけ避けたい。

「悪いけど、僕も自分の勉強で手いっぱいで……他を当たってくれると嬉しいです」

 言葉を選びながらやんわりと断る。嬉しいですと言いながら、否定。これこそ日本人に許された拒否だ。

「でも、小テスト点数良かったダロ! 今日のだけでいんダ!」

 うっ。回避策が一気に減った。ここはどうする。拒否を貫くか? 今回だけ教えるか? でも、苦手なタイプなのには変わりない。

「セイ君、いいことをするのも守護天使としてのちぃの評価が上がりますよ!」

 お前もか。そういえばちぃはクラスの中心に近い存在だった。いわば丹波君と近しい。この見た目でも怖くもないのだ。

「……僕で良ければ」

 ああ、ちぃの試練合格のために僕の学校生活を犠牲にしてしまった。これで目をつけられたらお終いだ。

「アリガト!」

 丹波君の笑顔は夏の太陽と同じ眩しさだ。僕みたいな影がお似合いの人間には強すぎる。

「じゃあ、早速オレの家で教えてくれないカ?」

 今から断っても遅くないだろうか。


 丹波君の家は僕の家と逆方向。五年前に出来た団地の中にあった。レンガの使い方がセンスの光る一軒家は、焼杉の壁が地味な僕の家とは大違いだ。

「外国のお家みたいだね!」

 ちぃがあちこち飛び回って歓声を上げる。小さな庭に植物のアーチがあったり、レンガを組み立てて作った窯が設置されていたりしている。こういうところは母親の趣味が出てくる。丹波君の母親はセンスがいいのだろう。母親が外国人なのかもしれない。

 横目で観察していると丹波君に招き入れられた。玄関は吹き抜けになっていて、天井が高い。外見よりずっと広く感じる設計だ。

「オフクロ! ダチ連れてきたー!」

 乱暴に靴を脱ぎ捨てながらリビングと思われる部屋に入っていく。一体僕はいつ、丹波君の友達になったんだ……。一瞬目の前が真っ暗になりそうになった。けれど、丹波君の家も負けないほど個性が強かった。

「オカエリ、リュウ! トモダチ連れてきたのネ!」

 明るい声と情熱的な赤色のワンピースを着た女性……恐らく丹波君の母親が登場した。丹波君と同じ日本語離れしたイントネーションに、シャンプーのCMに出てきそうな綺麗な髪。彫り深い顔立ちと琥珀色の目がよく似ている。やっぱり、丹波君はハーフだった。

 丹波君の母親は僕を見るなり、真っ先に熱いハグをしてきた。

「いつもリュウがお世話になってマス! ママ、アナタがトモダチになってくれて嬉しイ!」

 丹波君の母親は僕よりも身長が高く、そしてグラマーだ。ちぃより大きい胸に顔を押しつけられて、恥ずかしさと慣れない人のテンションの高さで頭はパニック状態だ。

「あー! セイ君ラッキースケベ! 変態!」

 いや、出会って一秒で力強く抱擁されたのだから不可抗力だ。読めていれば一歩下がって避けているが、普通息子の友達を抱きしめる母親はそういないだろう。

「オフクロ、青林が困っているからヤメロっテ」

 丹波君は慣れたように窘める。

「ゴメンネー。リュウが久しぶりに友達連れてきたからツイ」

「わりぃな、青林。オフクロ、海外生活が長かったから挨拶にハグするのが抜けてねぇんダ」

 なるほど。これが外国のコミュ力の高さ……。思い知りました。

「兄ちゃん!」

 ドタバタと足音が二人分聞こえたと思ったら今度は小学生ぐらいの男の子が二人走ってきた。ハグの可能性を考え、構えたが、来なかった。良かった、この子たちは日本人の挨拶を知っている。

「兄ちゃんオカエリ!」

「兄ちゃんアソボ!」

 丹波君とは違い、日本人に近い顔立ちの弟二人は丹波君に飛びつく。弟二人の顔立ちがそっくりなので双子だろう。

「わりぃけど、兄ちゃん勉強するから後でナ」

「リュウ! 何かあったノ!?」

 丹波君の母親は幽霊でも見たような真っ青な顔になる。丹波君は普段テストの点数を気にしないんだろう。

「ただ期末テストの勉強だから。ホラ、青林。部屋案内するナ」

 サッサと階段を上がる丹波君に「お邪魔します」と僕とちぃはついて行く。

「お菓子持っていくからネ!」

 ノリノリな丹波君の母親の声を後にして。

 丹波君の部屋は家の外見や庭とは違い、ごく普通の日本人男子生徒の部屋だった。野球の雑誌やサイン、漫画が本棚に入っている。

「にぎやかで楽しそうだね」

 僕がそう言うと丹波君は照れくさそうに「アリガト」と笑った。

「じゃあ、早速だけど今日返ってきたテストの振り返り始めようか」

 楽しい家だけど、丹波君が僕にとって苦手なタイプには変わりない。ここはさっさと教えて帰ろう。部屋の真ん中に折り畳みの机を設置して、僕と丹波君は向き合うように座る。お互いのテストと、ルーズリーフを一枚取り出す。

「ヤッパリ、青林って頭いいナ」

「そんなことないですよ。国語が……表現技法が好きだから」

「タメで話せヨ、クラスメイトだからサ」

「あ、じゃあ……うん」

 僕はしどろもどろに返事をする。やっぱり、丹波君は僕とは正反対の人間だ。僕はクラスメイトにこんなことを言えない。

「最初の問題から解説していくから」

 僕の長い戦いが始まった。丹波君は思っていた以上に国語が苦手なようだ。日本語独特の言い回しや、表現の仕方が彼の性格に合わないのだろう。

 僕なりの覚え方や例文で覚えてもらおうとするも丹波君は頭を悩ませていた。

「擬人法って、難しいナ。人だと誤解するじゃねぇカ」

「人だと誤解していいんだよ。そういう在り方でいたい表現だから。性格みたいなものだよ」

「性格?」

 僕はしまったと、顔の体温が下がる。冷や汗が溢れて仕方ない。カチコチになった僕に丹波君は笑って場の空気を緩めてくれた。

「イヤ、怒ってねぇヨ。そういう考えもあるんだなぁっテ」

 丹波君はじゃあ、この表現もそういうキャラなのかと、小テストの不正解の問題を解き始める。スラスラと解き始めた丹波君に僕は安心感と同時に関心もした。そして、全部解けた丹波君の答え合わせをすると九割正解していた。

「青林! お前、すげえナ!」

「いや、丹波君の応用力が高いからだよ」

 正直僕も驚いている。五点だった丹波君がここまで解けたのだから。

「アリガト! 青林!」

 よし、これで帰れる……と、思った時だった。

「お菓子持ってきたわヨ!」

 そう、丹波君の母親の持つお盆にはたくさんのお菓子が。……もう一時間はいないといけないだろう。


 丸い口の中でホロホロと溶けるクッキーを食べながら期末テストの範囲について話していると丹波君は英語が得意なことが分かった。ハーフだからだろうか。

「丹波君って、ハーフだよね?」

「ん? クォーターだゼ、オレ」

 クォーターだったのか。それにしても欧米の特徴がある顔つきだ。ハーフと言っても通じるぐらいには。

「どこの国?」

「スペイン。祖父さんがスペイン人で、中学に上がる前までそっちで暮らしていたんだゼ」

 確かにあの母親を見ると納得ができる。夏の暑さと刺激的な赤が似合う家庭だ。出されたお菓子も日本で人気のチュロスもあったけど、僕はこのポルボロンというクッキーが一番気に入った。

「親父が元は海外で記者やっていてサ。んで、今は仕事の都合で日本に戻ってキタ」

 カベージョデアンヘルという日本語で「天使の髪の毛」という南瓜のパイを一切れの半分を一気に丹波君は食べてしまった。一口が大きい。

「帰国子女って言うのだね」

「でも、そういうの変に騒がれるだロ? オレ、野球好きになって、こっちでもやっているいるけどサ、最初は部活で日本人より強いからレギュラーは当たり前って結構言われていたんだゼ。この見た目だからセンセーにも目ぇつけられるしサ」

 意外だった。僕はてっきりそんな自分を当たり前だと、強気になっているんだと思い込んでいた。恵まれた能力と環境で何不自由なく生きているんだって。

「でも、僕は、丹波君は頑張っていると思うよ。こうやって勉強する努力も、野球も」

 失礼なことを思っていた自分が恥ずかしくて、僕はそんな自分を隠す。でも、丹波君は何の疑いもなく真っすぐに僕の言葉を受け止めた。

「勉強は、野球で行きたい高校に推薦で行くためなんダ! だから、どうしても点取りたくてサ。青林のおかげで期末自信出てきたゼ!」

 僕は素直に感心してしまった。丹波君は絶対に小さなことでも感謝は忘れない。それが派手な見た目でも、野球部のレギュラーでも、彼の変わらないところだと。

 僕の苦手なタイプの中にも彼みたいな人はいるのだと。少しだけ世界が変わって見えた。


 それから二週間後。期末テストが返ってきた。丹波君は先生に褒められていたところから赤点は免れたのだろう。

「良かったね、セイ君」

 ちぃが下駄箱で靴を履き替える僕に話しかけてくる。

「そうだね」

 僕は短く返事をした。

「オーイ! 青林!」

 聞き覚えのある声に振り向くと、一瞬気圧されそうな雰囲気だけど笑顔の眩しい丹波君が走ってきた。

「勉強教えてくれて助かったゼ! オレ、初めて七十点取れタ!」

「それは良かった」

 これで丹波君と関わることはないだろう。その現実に僕の心は嬉しいはずなのに針で穴を開けられたみたいにスースーする。でも、そんな自分からは動けない僕に、丹波君はきっかけをくれた。

「んでさ、礼がしたいからまたウチに寄って来いヨ!」

 また、あの騒がしいけれど温かな家に行ってもいいのだろうか。でも、勉強を教える以外理由がない。見えないきっかけが今、目の前まで差し出されていると言うのに僕は怖気づいてしまう。

「セイ君」

 ちぃが僕の名前を呼ぶ。真っすぐとその黒い目で見つめてくる。セイ君は逃げちゃうの?そう言われている気がした。

 僕は、一歩だけ。ほんの一歩の勇気を出してみた。だから、僕はこう答えた。

「もちろん。今度は友達として」

「青林……イヤ、セイ! あの勉強会からオレ達、トモダチだロ?」

「そうだね。……リュウ!」

 僕は夏の気温と恥ずかしさで熱くなりながら、友達に笑顔を向けた。

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