その日は戻ってきた保健室の先生からの指示で一時間目も迎えていないのに早退することになった。保健室の先生が言うには僕は貧血で倒れていたところを通りかかった先生に助けられた……らしい。ちぃを見るとわざと口笛を吹いて誤魔化す辺り、絶対記憶の改ざんでもしているのが丸分かりだ。

 教室までの間、ちぃは廊下から十センチぐらい浮きながら僕について行く。時折、あちらこちらに飛んでいこうとするが、毎回校内の生徒や職員にぶつかりそうになるので冷や汗が止まらなかった。けれど、誰一人ちぃに視線を向けない。浮いていて、翼のある女子生徒がいたら視線の格好の餌食だ。コスプレだと騒がれるだろう。

 地味に認めたくはないが、ちぃは美少女の部類だ。大きな黒い瞳に、華奢な身体、どこのシャンプーか知らないがいい香りのする髪。頭は悪いが、運動神経はいい。独特なペースと舌足らずな口調は一定数の人からは嫌われるが、本人は全く悪意がないのでお姉ちゃん気質の生徒や教師、近所の人からは可愛がられる。でも、それを世渡りの武器に使う性格でもない。そこが良くも悪くも評価が真っ二つに分かれるのだ。

 ちぃとは小学生からの腐れ縁で、家も近所ときたものだから僕はこのペースに慣れてしまっている。慣れだ。嫌いではないが好きでもない。絶対に。

 たった二クラスしかない教室の片方――三年一組に入る。僕の席は窓側の前から三番目。割と静かな席で気に入っている。カースト上位である丈の短いスカートの女子達を掻い潜り、机の横にかけている革の鞄に教科書類をしまっていると、視線を感じた。隣の席の女子生徒が本から顔を上げて、物言いたげに口を小さく開閉している。一時間目も始まってもいないのに帰るのが気になるのだろう。けれど眼鏡の奥、気の弱そうな視線が合うと、サッと読書に戻った。

「言いたいことがあるなら言ってもセイ君は怒らないよ」

 聞こえてもいないのにちぃは女子生徒の真向かいに座る。僕が準備を終えても座り続けているので先に帰ろうとすると、

「あ! セイ君酷い!」

フワフワと飛びながら追いかけてきた。

 別に僕は酷くないんだけど。

 独り言ちながら教室を出てすぐの下駄箱で靴を取り換えていると、僕の頭上に手を伸ばす影があった。

「すみません」

 急いで通学用の靴を取り、避けると下駄箱の上に置いていたデカい水筒を取った男子生徒がジッと僕を見ていた。

 この人、怖いな……。

 野球部のユニホームを着た男子生徒は朝練の休憩中なんだろう。それにしても目立つ見た目だ。身長が高い。あと、髪を染めているのか明るい茶色で、目は狼の様に黄色に近い。アレだ、琥珀の色だ。関わりたくないセンサーが作動してすぐに下駄箱を去った。ちぃはあの人おっきいねーと振り返りながらついてくる。

 自転車置き場から自転車を探し当て、裏門から自転車に乗ってペダルをこぐ。ずっと放っておかれているちぃはねーねーとずっと話しかけてくる。

「あの女の子本が好きなのかな」

「確か、僕と同じ図書委員だったからそうだと思う」

「セイ君も本好きだよねー」

「あの子みたいに古いのは読まないけどな」

 あの女子生徒が読んでいたのは日焼けして茶色くなった表紙がいかにも古い本だった。文豪の書いたものだろうか。僕は手軽に鞄に入る文庫本や大きくてもA5サイズまでの本が好きだ。特に一巻で完結するのがいい。あまりに長いと雀の涙ほどしかない中学生のお小遣いでは高くて買えないのだ。

「ちぃは本苦手だけどね」

「千尋は漫画しか読まないからな」

「だって、絵がある方が分かりやすいんだもん」

 ちぃはふくれる。まあ、僕も漫画が好きだけど。

 今日は晴天だが、山の天気のようにちぃの話題はコロコロ変わる。

「あと、あの男の子カッコよかったねー」

「目の色、変わっていたな」

「ハーフかな? でもあの黄色っぽい目の人って珍しいね。青とか緑とかは知っているけど」

「ブラウンとか黄色とか、ああいう色の方が人口は多いらしい」

「えー! そうなんだ!」

 テレビで確かそんなことを耳にした。日本人に多い黒目も、黒く見えるだけでブラウンの一種だとか。

 そんなことを話していると公園が見えてきた。ちぃと喧嘩したあの、公園。僕は気まずくて俯いていると、ちぃは公園の中に入っていった。

「ブランコ乗るー!」

 ちぃはブランコに乗ってこぐ。楽しそうなのがバサバサ羽ばたく翼から伝わる。天使の翼って犬の尻尾と同じ仕様なのか。

 ブランコの勢いが大きくなるにつれて僕は公園内を見渡す。僕以外の人が見たらひとりでにブランコが揺れているとビックリするに違いないからだ。幸い、公園には誰もいなかった。不思議なことにちぃと一緒の時、公園には誰もいないのだ。まるで二人の世界を演出しているかのように。

 ちぃは昔からブランコが好きだ。ブランコに乗ると世界が違って見えると言っていた。僕は隣のブランコに座って、勢いがぐんぐん上がる様子を眺めていた。ふと、視界にひらひらとピンクの花びらが舞う。僕はその普通より濃い色とこの季節に開花するこの公園の桜を思い出した。

「もう、五月なんだな」

「ふぉえ?」

 ちぃが間抜けな声を出す。ぐらりとブランコの軌道が乱れて一瞬血の気が引いたが、

「えい!」

と、体をよじらせて元の軌道に戻ったので一安心した。また、ちぃが死ぬかもしれないと怖かった。そんなこと、あるわけがないのに。

「どうしたの、セイ君?」

 ちぃが僕の顔色を覗く。僕は慌てて誤魔化した。

「いやぁ、この時期にちぃが引っ越して来たんだなってさ。ここの桜、珍しいから妙に時期だけは覚えているんだ」

 ちぃは、小学二年生の五月と言うなんとも微妙な時期に、この海嘉瀬市に引っ越して来た。GW明けに当時の担当教師に連れられて来たちぃは髪型がショートカットだったことを除けば今とそれほど変わらない。よく通る高い声で「今元千尋です! ちぃって呼んでね」と、簡単な自己紹介をした。

 集団下校で帰る時に同じ班になり、途中でそれぞれの家へ帰り、一人二人と減っていく中、僕とちぃは二人になった。そして、この公園の曲がり角で別れた。公園の近くにはボロアパートがあるから、ちぃはそのアパートに引っ越したのだと僕はクラスの誰よりも先に転校生の家を知って何故かその日は浮かれた。

 登下校を繰り返すうちに、この公園に僕とちぃは立ち寄るようになった。ちぃはこの公園に咲いている桜を見て「五月なのになんで咲いているの? おかしいー」と、言った。桜の開花は年々早まっているが、まだ当時は四月に咲くのが世間一般的なイメージだろう。でも、この桜は違っていた。八重桜と言う遅咲きの桜。色が薄い品種もあるけれど、この公園の八重桜は色が濃くて、その名の通り沢山の花弁が一つの花になっている。牡丹の花が桜になったかのような、豪華だけどどこか品性を感じる桜で、僕は好きだ。

 八重桜のことを僕はちぃに教えると「セイ君は物知りだね!」と、満開の桜と同じ笑顔を見せてくれた。

 セイ君。その舌足らずな呼び方がくすぐったくて僕はつい、笑ってしまった。決して馬鹿にしたわけでない。みんなは「せい君」と呼ぶのに、「セイ君」と、どこか違うのがちぃらしかったんだ。ちぃはバカバカ! と僕を軽く叩いた。「ごめんね、千尋ちゃん」と言うと「セイ君はちぃのことを笑ったので、罰としてちぃって呼んでもらいます!」と、罰なのか微妙な命令をしてきた。だから僕はまた「分かったよ」ってくすっと笑った。ちぃはまた、ポコッと一回叩いた。

 でも、年齢を重ねていくうちに、僕とちぃが仲良くしているのが冷やかされるようになった。中学に上がる頃には「千尋」と呼ぶようになって。休み時間にちぃが話かけに来ても、僕は本の世界に逃げているフリをしていた。いい意味でも悪い意味でも目立つちぃだ。中学生になった僕は、ちぃとのいつの間にか当たり前になっていた漫才みたいなやり取りより、自分の学校内と言う世間体の方が大事になっていた。

 一緒に登下校をすることもなく、話すこともない。ちぃはすれ違う度に僕に話しかけようとしたけれど、僕は歩みを早くして、ちぃから逃げ続けていた。

 そんな生活が二年続いた三月の卒業式の日。

 偶然、帰り道で公園のブランコに乗っているちぃと目が合った。そして、話しかけられたものの、気まずさから卒業式の話、当時は二年生だった僕たちが来年はあの場所に立つのだと話題を逸らしていた時、ちぃが突然に別れを告げたのだ。

 そして、今。ちぃは、僕の守護天使になってここにいる。

「ここの桜、ちぃ大好きだよ」

「僕も」

 短く答えるとちぃは笑った。翼が花びらで薄紅に染まっている。羽からは春の日差しと桜の匂いもしてきそうだ。

 そういえば、守護天使の試練とはなんだろうか。

「ちぃ、守護天使の試練ってなんだんだ?」

 ちぃは待ってましたとばかしに、ブランコから飛び降りて、綺麗な着地を見せた。あの事故があった日と同じポーズで。僕は眼鏡の縁で見えないようにした。

「神様に選ばれた天使に与えられた凄い試練なのです!」

 ドヤ顔で答えてくれるちぃには申し訳ないけれど、あまり凄さを感じない。

「でも、そもそも守護天使ってそう簡単になれるのか?」

 キリスト教では守護天使は重要な存在でもある。とある神学者によると、クリスチャンや、他の宗教の信者、いやどんな人であっても、人には守護天使がついているとされている。この守護天使は守護対象を導き、悪の方向へ行っても止めはしないが、心を照らして守護対象を良い方向へと吹き込むらしい。守護天使は一人に対して善と悪に分かれた天使が二人ついているともされていて、これがよく言われている、迷った時に心の中で天使と悪魔が自分に語り掛けてくるモデルじゃあないのかと、僕は勝手に推察している。

「ちぃがね、セイ君が心配だから、幸せに導く天使になりたいって言ったら神様が守護天使にしてくれたのです! でも、神様が『青林星也は迷える人の子。このままだと悪の道へと行くでしょう』て、言ったからちぃが助けたいって言ったの!」

「それで、僕を正しい道に戻すための試練……。卒業式を迎えること」

「うん!」

 大きく頷くちぃの顔には「褒めて!」と大きく書いてある。けれど、頼んだわけでもないのに勝手に神様と話をつけて、僕の守護天使……いや、帰り道もついてくるとは思わなかった、ストーカー天使になるのは正直、迷惑だ。でも、解約する気はない。

 神様が何と言おうと僕は、犯罪行為はもちろん、校則も破ったことはないし、学校の生活態度はどこにでもいる中学生だ。あの琥珀色の目をした野球部の男子生徒みたいに派手な見た目はしていない。どっちかというと古い本を黙々と読んでいたあの女子生徒と同じ属性だ。

 家では家族の期待には確かに応えられていない。けれど平凡で、特出した能力なんてない僕に一時期期待を寄せ過ぎていた両親にも原因がある。今は妹がめきめきと学力を伸ばしているから両親は妹の成長が楽しみで仕方ないようすだ。だから、僕はこのままでいいんだ。それが逃げているとしても。

 でも、それが誰かに迷惑をかけている何て一つもない。家族とは一歩距離を置いて、家では静かに生活をしているのだから。

「試練に合格したら、セイ君を悪いことから守ってあげられるし、もし悪魔が来てもちぃが倒してあげるから!」

 シュッシュとアッパーをするちぃ。それが身長155センチで童顔天使でなければどんなに心強いことだったか。

「それにね、保健室で言った通り合格したらご褒美として何でも一つ願いが叶えられるの。だからちぃは、セイ君の願いを叶えてあげたいのです!」

 何でも願いが叶う。保健室で僕が一番心を掴まれて、欲深さにちぃと契約した理由。僕は神様を信じているわけでもなく、無教徒だけれど、ちぃが言うと不思議な信憑性があった。だから、あんな願いも叶うと、僕はその望み一つでこのストーカー天使と一緒にいてもいいと決めたのだ。そうだ、僕にはちぃを生き返らせる望みがある。

「試練って具体的にどうしたらいいんだ?」

 一番大事な質問にちぃはえっと、えっと、と急に挙動不審になった。

「ごめんね。それを言ったらちぃは神様のところに帰らないといけないのです」

 なるほど。そういえば守護天使は本来守護対象の前に現れず、影として守る。だからこうして目の前にちぃがいるということは、神様とやらは譲歩してくれているのだろう。

「とにかく! セイ君が毎日幸せに生きてくれて学校を卒業してくれるのがちぃの願いなのです!」

 そう、笑うちぃの顔は満開の桜と同じだった。

 

 なんでちぃが僕の守護天使になってまで、僕を幸せにしたいのか。

 僕は何にも知らなかった。ただ、押し付けて、逃げ続けていただけだった。

 この世界とちぃの秘密を知るまでは。


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