第11話 危機一髪
少女にとって、誰かから逃げるという行為は、予備知識としては頭に入っていたものの、いざ実践するとなると、その予想以上の過酷さに、自らの認識は甘かったのだと、強く思い知らされていた。
だからといって、追手が少女に気を遣って見逃すなどということをしてくれるはずもなく、少女は体力も精神力も削りながら、4両ほどある貨物車両を、後方へ後方へと逃げる以外に選べる道がないのも事実であった。
普段から力仕事をしているわけでもない少女にとって、大きなトランクケースを手に走るという行為は、苦行以外の何物でもなかったが、その小さな体形が幸いし、かろうじて追手との距離を離すことができていた。
しかしながら、休んでいてはすぐに追手である黒服の男たちに追いつかれてしまう。
途中、積荷につっかえて落ちてしまった、自前のつば広帽子を取りに戻る時間さえ惜しいほどだ。
そのため、少女は時間と体力の許す限り、身にまとった上質な外套が積まれた貨物や列車の壁に擦れて汚れるのもいとわず、逃走し続けなければならなかった。
「諦めろ、逃げ場はないぞ!」
「その荷物さえ渡せば、何もしない。だから、黙ってこっちに来るんだ!」
「このままだと時間の問題だぞ。どうするのが一番賢いか、考えてみるんだな」
後方の、貨物の隙間から伸びてくる男たちの声が、車両内上方のぽっかり空いたスペースに反響し、より大きく少女の耳へと届く。
その迫力に、少女は一瞬たじろぎながらも、手にしたトランクケースへと目を落とし、小さな可愛らしい口を真一文字に締め直し、次の車両へと通じる扉を、引き開けた。
閉め切られた空間から、ほんの一時日光と風を感じたかと思えば、少女は再び閉鎖された車両内へと乗り移る。
背後で扉がスライドして閉じる音を耳で確認しながら、少女はもう一度、積荷間の隙間に強引に身体をねじ込み、出口となる扉を目指す。
「逃げなきゃ……絶対に、これは取られちゃいけないんだから」
自らに言い聞かせるように、少女はそう言葉を漏らす。
そして少女から遅れること数十秒。
一度閉じた車両のドアが勢いよく開けられ、黒服の男たちが中へと勢いよく突っ込んでくる。
呼吸を荒げながらも、トランクケースを手に何とか足を動かす少女に対し、男たちは多少表情は険しいものの、疲弊している様子はまるでない。
このままでは、間もなく捕まってしまうのは間違いないということを、少女自身も理解していた。
「何とか、時間を稼がないと……せめて、私が逃げ切れるだけの――」
最後の貨物車両、その真ん中まで到達したところに偶然あった小さなスペースで、少女は手にしたトランクケースを足元に置き、積み上げられた木箱と壁との間にできた隙間から、追いかけてくる男たちの様子をうかがい、まだ猶予があることを確認した後、周囲に目を配り、案を模索する。
かといって、周りにあるのもほとんどが大型の積荷であり、小柄な少女に何かできるようなものではなかった。
「……いえ、諦めるには早すぎるわ」
少女は薄暗い車両の中、目を凝らして足元にまで捜索の範囲を広げる。
そして、壁際に何やら細長い棒状の物体が転がっているのを発見する。
「これは……でも、やらなきゃ!」
少女が手にしたもの――それは、すっかり錆び果てた、火掻き棒であった。
どうして火掻き棒がこんな場所にあるのかという疑問を抱かないわけではなかったが、時間に追われている少女にとって、それを考えるだけの時間は残されていない。
「――見つけたぞ。観念しろ!」
黒服たちの顔が隙間からはっきりと視認できる距離にまで近づいていた。
もう、考えているだけの時間はない。
少女は意を決した様子で、両手で火掻き棒を握ると、目の前に積まれている木箱の、一番下段に積まれているものに対して、思いきり叩きつけた。
瞬間、木箱はミシリと音を立てる。
「――いける!」
そこで少女は確信し、何度も何度も、火掻き棒を木箱へと打ち付けた。
「お願い、早く……壊れて!」
少女の手は極度の疲労で限界を迎えていた。
そして、黒服たちとの距離も寸前まで近づいており、隙間から伸びた男の太い腕が少女の眼前で大きく振るわれる。
その動作に、少女は驚き、火掻き棒を落としてしまう。
車両内に火掻き棒の転がる音が響いたかと思うと、次の瞬間、少女が叩き続けていた木箱が、上に積まれた箱たちの荷重に耐えきれず、最前で少女を追っていた男もろとも一気に崩れ落ちた。
巻き上がる埃と轟音、そして男の鈍く短い悲鳴。
「くそっ、どうなってる?」
「ダメだ。埃で見えない……それにこう崩れてたら向こうになんていけないだろ」
突然の予想だにしなかった出来事に、対応に困っている男たちの声が巻き上がった塵埃のカーテンの向こうから聞こえてくる。
それを聞いた少女は、これぞ好機とばかりに、そっとトランクケースを持ち上げ、足音を立てないよう、忍び足で出口までの道のりを、ゆっくりと歩き始める。
そして、なんとかドア前まで到達したところで、少女はホッと息を吐き、背後で何とか崩れた木箱を動かそうとする男たちのやり取りを聞きながら、ドアの取っ手へと手を掛けた。
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