第6話 撃退

 グリードに突き飛ばされた少女の身体は、後ろにのけ反るようにバランスを崩す。


 なんとかバランスをとって、その場に踏み留まろうとするが、一度動き出した身体と傾いた重心は、一人の力では元に戻すことは難しく、必死に抵抗を試みるも、結局は抗いきれずにトランクケースを手にしたまま、通路の真ん中に尻もちをついた。


 その刹那、すっくと立ち上がる人影の挙動を、少女の瞳は自然と追い、見上げる。


「この……舐めたマネしやがって。荒事は控えろと言われていたが、そんなの知ったことか。このままじゃ俺の腹の虫がおさまらねぇ。ぶっ倒してやる!」


 これ以上ないというほどに、怒りに顔を歪め、先ほどまで床に倒れていた男は相変わらず鼻から血を垂らしながら、スーツの内側から黒鉄の塊を取り出し、グリードへと突きつけた。


 男のとった凶行に、傍観に徹していた他の乗客たちも激しく動揺し、また男から遠く離れた座席に着いていた一部の乗客に関しては別の車両へ逃げ出すべく、立ち上がり、ドアへと向かって駆け出す始末。


 その行動は、他の乗客にもさざ波のように伝搬し、混沌を生み出す。


 我先にと、早く安全な場所へと、人々は狭い扉へと押し寄せ、開放を迫って言葉と拳を叩きつけ始める。


 だが、男もそれを黙って見過ごすほど、頭のねじの外れた人間ではなかった。


「うるせぇ! 騒ぐんじゃねぇ! 逃げようとしたやつら、全員撃ち殺すぞ!」


 怒声と共に、グリードに対し構えていた現状一番強力な武器――拳銃を、逃走を試みた人の群れの方へと向け直す。


 無論、逃げ出そうとした者たちは、それが何なのか、知らないはずはない。


 つい数秒前まで鳴り響いていた人々の哀訴嘆願の声も、そんな男の言葉を耳にした途端、ピタリと静まり返ったのであった。


「……ったく。わかればいいんだよ」


 自らの指示がすぐさま伝わったことに、男は満足そうに口元を緩めると、再び拳銃の銃口をグリードへと突きつける。


 まさに、立場逆転――起死回生の一手であったが、不思議とグリードの顔には焦りも困惑も、それどころか緊張感さえも見られなかった。


 しかしながら、自分が優位な状況にあると信じて疑わない、赤茶色のスーツに身を包んだ男は、その違和感に気付かない。


 その油断は当然、大きな隙と反撃のチャンスを生む。


「なぁ、アンタ……そういや名前は何て言うんだ? 一応俺はグリードって名乗ったつもりなんだが、せめて名乗り返すくらいしてくれるのが礼儀ってもんじゃないのかい?」


「はっ、こんな状況でもそんな戯言を口にできるとはな。頓珍漢な野郎だな。言って困ることでもないし教えてやるよ。俺の名前はマルクっていうんだ。あの世で誰に殺されたんだって聞かれたら、そう答えな」


 そう言うと、マルクと名乗った男は照準を合わせるようにグリードを睨み、銃の引き金に掛けた人差し指に力を込めようとする。


 誰の目にも、次の瞬間には拳銃からは弾丸が発射され、グリードの胸を貫くことは容易に想像できた。


 だが、当のグリードは最後まで危機感のない、余裕を感じさせる顔を崩すことなく、まるで旧知の知人に話しかけるかのような軽い口調で、マルクへと呼び掛ける。


「そうか。マルクっていうのか。そいつはよかった……」


 次の瞬間、グリードは一気にマルクとの距離を詰め、拳銃ごとその右手をつかみ、流れるような所作で身体を回転させて、腕ごとひねり上げる。


「うがぁっ、腕が、おれ、折れる、折れるっ――」


 痛みをこらえれ、最後で気を強く持っていれば、かろうじて銃弾の一発くらいは発射できたであろうが、突然の出来事に動揺したのか、マルクは呆気なく拳銃を手放し、痛みと拘束からの解放を求めて情けなく声を漏らす。


 落下した拳銃の、重々しい音が床から上がったかと思えば、グリードは瞬時に足先で座席の奥――マルクが容易に拾い上げることのできない場所まで滑らせた。


 そして、マルクの耳元で、グリードは囁くように選択を迫る。


「本当は、このまま始末してもいいんだが、幸運にも俺は今プライベートで、無駄な仕事を増やしたくないとも思ってる。俺の目の前から消えて、今後近づくような真似をしないっていうのなら、見逃してやるが、どうする?」


 自らの殺生与奪をはかりにかけられたマルクにとって、それは選択の余地のない質問であった。


 無様に生きることに比べれば、高潔な死を選ぶという選択もないわけではなかったが、これまでの態度から見ても、マルクがその選択をするなどということはなく、結局の所、マルクは拘束からわずか数秒で、無様な生を選ばされるという屈辱を受け入れざるを得なかった。


「わ、わかったよ……だから、腕を、折れる前に……」


「物分かりが良くて助かる。俺もさっき聞いた名前を、別れの挨拶に使わずに済んでよかったよ」


 再度、耳元でそう告げると、グリードはマルクの腕を放し、すぐさまその背中を突き飛ばし、乗客が集まっていた方とは逆――列車の進行と同方向のドアの向こうへと促した。


「くそっ、こんなはずじゃ……」


 マルクは苦虫を噛み潰したような顔で、一度グリードを振り返るも、それ以上何かを語るでもなく、痛めた右腕を左手でかばいながら、そそくさと車両を出ていくのであった。

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