第5話 力量

「後悔しても、遅いからなぁぁぁっ!」


 自らの抱いた怒りに身を任せ、男は振り上げた拳を、グリードの顔目がけ、一直線に伸ばす。


 それは一般的には、これ以上ない先制攻撃であった。


 一瞬にして近づいた、互いの呼吸が感じられそうなほどの距離から、上体をひねりながら繰り出される右腕の一撃。


 ケンカの覚えのない人間であるなら、避けることも叶わず、歯を食いしばり、これから来る衝撃に備えることくらいしかできない――それほどに、絶対的なタイミングであった。


 ところが、その寸前になっても、グリードはどこか余裕を感じる飄々とした表情を崩すことはない。


 それは、グリードの瞳の動きが男の顔を捉えていたことからも、これから起こることを理解できていないだとか、反応しきれていないだとかいうものではないのは明らかであった。


「わりぃな」


 グリードの口が小さく動き、発せられた言葉の意味を男が理解した時には、既に勝負は終わっていた。


 決して大振りではない、脇を締めたコンパクトなパンチが、男の顔面へとカウンターとしてきれいに入る。


 一撃で勝負を決めようと、勢いよく踏み込んだ男は、自分が攻撃を食らってしまうという意識がなかったこともあり、十分すぎるほどの衝撃を頭で受け入れる以外なかった。


 言葉を上げることもできないまま、男の頭がガクッと垂直に落ち、力を失った右腕が宙を掻いて、わずかに空気を震わせた。


 慣性に従って前へ突っ込もうとする身体も、落下運動を開始した頭部に引っ張られて床へと一気に吸い寄せられ、痛々しい転倒音を上げる。


「……短気は損気って言うだろ?」


 グリードは男にカウンターを食らわせた右手を軽く振りながら、足元で鼻血を流しながら伸びている男を見下ろす。


 しかしながら、足元で完全に意識を失っている男から返答などあるわけもなく、グリードはしばらくその様子を見た後、何事も無かったかのように、自らの座席に戻ろうとする。


「――あの、ありがとう、ございました」


「んっ?」


 死角から聞こえてきた若い女性の声に、グリードは一度動きを止め、通路の方を振り返る。


 そこに居たのは、身体の前で、もう離すまいとトランクケースをしっかり両手でつかんで持つ、三等車両には不釣り合いな上級な衣服とつば広の帽子を被った、十代半ばくらいの少女であった。


「何か礼を言われるようなことでもしたか?」


 グリードは大して興味を抱くこともなく、素っ気ない態度で少女に答える。


 対して少女は力強く首を振ると、興奮を含んだ表情でグリードに近寄る。


「とんでもないです! あなたがこの人を倒してくれたおかげで、こうして荷物を取り返すことができたわけですし、お礼を言うのは当然です!」


 帽子の下から顔をのぞかせ、上目遣いで少女は見つめるが、グリードは表情を変えることなく、無骨な言葉で突き放す。


「俺は別に、お前の荷物を取り返す為に、こいつに一発かましたわけじゃねぇ。こいつが突っかかってきたからわからせてやっただけだし、俺はおまえの荷物がどうなろうと知ったことじゃねぇんだから、気にするんじゃねぇよ」


「それでも、結果として助けてもらったのは事実ですから――」


 頑として礼をしようとして譲らない少女の態度に、グリードの無機質気味な表情は、鬱陶しそうなものへと変わり、ついには深いため息を吐く。


「だから、俺がいいって言ってるんだから、お前は気にしなくていいんだよ。見たところ、旅慣れはしてないみたいだが、誰にでもそんな態度でいると、ろくでもないやつらにいいように使われるぞ?」


「それって……あなたも、ですか?」


「――は?」


 あまりにも真っ直ぐに向けられた少女の疑問の声に、グリードは反射的に間の抜けた声を漏らすが、すぐに意図を察して思わず口元をゆがめる。


「……あぁ、そうかもしれないな」


「でも、だとしたら、どうしてあなたはそんなことを私に教えたんです? 黙ってた方が私を利用するにも便利なんじゃないですか?」


「よくそこまで頭が回るもんだ。まぁ、それはだな――」


 なおも、純粋に尋ねてくる少女に、グリードは腹の底からわき上がってくる笑いを何とかこらえ、答えようとするが、足元から感じた気配の変化に、その会話は強制的に打ち切られる。


「――下がれ!」


 グリードはそう強く言うと、迷うことなく少女の身体を突き放した。

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