第4話 その男、名をグリードという

 目覚めた男は、口から漏れ出ようとするあくびを噛み殺しながらも、とった動きは顔の上にあった帽子を頭に被せるのみに留まっており、通路にはみ出した足を引っ込めようとする所作すら見せない。


 そのあまりにもふてぶてしい態度に、赤茶色のスーツを身に着けた男性は、元より険しかったその顔を、より強く歪め、激昂する。


「いいから、この足をどけろって言ってんだよ、オッサン!」


「何をそんなにカリカリしてるんだ? ここは列車の中だぞ、次の駅は……え~、外を見た感じだと、まだだいぶ先だと思うが、そんなに急ぐ意味もないだろう?」


 そこまで口にしたところで、相変わらず座席の上で横になっている男は口元のみを引き締め、一段低い声で、続けた。


「あと、名乗っていないから仕方ないかもしれないが、俺にも一応グリードって名前があるんだ。オッサンと呼ぶのはやめてくれないか、老けて見られる」


 自らをグリードと名乗った男は、なおも真っ直ぐに伸びた足先を、挑発的な瞳と共に、通路の真ん中で立ち往生している二十代半ばほどと見られる男性へと向ける。


 数多の修羅場や苦境を乗り越えてきた者であるなら、このようなわかりやすい挑発になど乗りはしないものであるが、いかんせん経験の不足した青二才の若者には、残念ながら、沸き立つ情動を抑え込むだけの余裕というものを持ち合わせてはいなかった。


「そんなこと知るかよ。オッサンはオッサンだろうが。そんな偉そうな口を利いてると痛い目に遭わすぞ!」


 男性は咆哮にも似た怒声を浴びせるが、対するグリードは涼しい顔でそれを聞き流す。


 その態度は、相手を逆上させるには十分すぎるものであった。


「――あの、その人を捕まえてください。持っているのは私の荷物なんです!」


 グリードとのやりとりで、足止めを食っていたところに、トランクケースの持ち主である少女の声が追い付く。


 それに気付いた男性――否、男は、小さく舌打ちをして、グリードから意識を遠ざける。


「くそっ、こっちは時間がねぇっていうのに――」


 男は背後を見やり、少女の駆け寄ってくる様を視認すると、業を煮やした様子でグリードの足を押しのけて、強引に進もうとする。


 瞬間、グリードの足が、男の膝前から姿を消す。


 押しのけるつもりであった男は、予想していた感覚がないことに驚き、わずかに前のめりになりながら、首のみをグリードの横たわっている座席の方へと向ける。


 その瞳に映ったのは、膝をきれいに折り曲げた、グリードの姿であった。


 それが一体何を意味するのか、頭で理解するよりも早く、男は自らの身体をもって知ることとなる。


「――うぉっ!」


 限界まで押し縮めたばねのように、勢いよく飛び出たグリードの足が男の顔へと向かう。


 間一髪、男は手に持ったトランクを引き上げ、直撃こそ免れたものの、その衝撃を完全には相殺するには至らず、そのまま通路を挟んで反対側にある座席スペースに倒れ込んだ。


 目の前に男が倒れ込んだことで、窓の外を眺めながら不干渉を決め込んでいた、灰色の外灯に黒い帽子を被った、白髪頭の老夫婦は目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。


 緊迫した状況から一転、暴力という一線を越えたことにどよめきが上がる。


 しかしながら、グリードは周囲の状況などまるで気にする素振りもなく、褐色のズボン、ジャケットに合わせた色合いの帽子を頭に乗せた状態のまま通路の真ん中に立ち、機械のように冷たい眼差しで、座席間の小さいスペースに仰向けに倒れる男を見下していた。


「勝手に人を煽っておいて、自分の都合で逃げだそうだなんて、お前はイタズラ小僧か何かなのか?」


 静かな怒りを含んだかのような、グリードの抑揚のない言葉。


 この状況において、それを目の当たりにした人間が取る方法は、大きく二つある。


 ひとつは、恥をしのんでそそくさと逃げ出し、身の安全を守ろうとすること。


 もう一つは、後に引けなくなり、グリードへと襲い掛かるといったことである。


 そして、この男が該当したのは、後者の方であった。


「この野郎……」


 男はその場で立ち上がると、口元を手で拭いながら、怒りに満ちた瞳でグリードを睨みつけ――感情に流されるがまま、その右腕をその憎らしい顔面へと叩きつけるべく、直撃を狙えるであろう間合いにまで一気に踏み込んだ。

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