第3話 発端

 列車内に響いた女性の声に、否応なしに周囲の視線は声の大元へと向けられる。


 そこにあったのは、三等列車には到底不釣り合いな上質な外套とつば広の帽子を身につけた、まだ十代半ばほどの小柄でか細い少女が、一回り程年上に見える、前をはだけたスーツ姿の男性と、旅行用なのであろう大型のトランクケースの取っ手を握り、取られまいと必死にこらえている様子であった。


 男性の方は上下を赤茶色のスーツにくすんだワイシャツという格好からも、決して上質な生活を送っているとは言い難いものであった。


 それゆえに、周りの乗客たちもこれが知人間におけるいさかいなどではないということは容易に察することができた。


 だが、そのただならない雰囲気に、皆不穏な気配を察し、トラブルに巻き込まれたくはないという保身の念が生じたのか、遠目にその様子をうかがってはいるものの、誰一人として止めに入ろうという者はいなかった。


 そして、座席前の小さなスペースで繰り広げられていた二人の格闘は、少女の握力の限界と共に、終わりを迎える。


「ったく、手間取らせやがって……おい、何見てんだ! 見世物じゃねぇんだぞ!」


 奪い取ったトランクを抱えつつ、周囲の視線に気付いた男性は、威嚇をするように声を張り上げると、目線だけを送って様子をうかがっていた人々は慌てて顔を背け、無関心を装い始める。


「お願いです、返して――」


 男性の注意が自分から離れたタイミングだと察してか、少女がトランクケースへと再び飛びつこうとする。


 しかし、その勇気ある行動も、体格差という高い壁によって、たやすくはねつけられる。


「こっちも仕事なんだ。文句があるなら、自分の父親を呪うんだな」


 小さな悲鳴と共に座席の上に投げ出された少女に、男性はそう告げると、何事も無かったかのように座席を離れ、隣の車両を目指し、通路を歩き始めた。


 静まり返った列車内に、電車の振動音と男の足音のみが響き、張り詰めた空気が漂う。


 そんな中でありながらも唯一、男性の通行を妨げる存在があった。


 それは他でもない、通路にぴょんと飛び出た、褐色のスーツを着た男の足先である。


 顔の上に帽子を被せているのもそうだが、他の乗客を気遣いもしない、まっすぐに伸ばした両脚は、トランクを手に通ろうとする男性には、邪魔以外の何物でもない。


 逆側の座席へと身体を寄せ、持っているトランクをさらに高く持ち上げでもすればくたびれた革靴に触れることなく通過することは可能であるが、先ほど強引に少女からトランクを奪い取った男性のこと――見ず知らずの、それも周りの迷惑など顧みないような乗客に対して、気配りなどするはずもない。


 無論、声をかけて足を引っ込めてもらうなどという平和的交渉もありえないのであった。


 そんな男性が取る行動は大概決まり切っている。


「おい、邪魔だっ! どけっ!」


 足を止め、これでもかというドスの利いた声を居眠りの真っただ中にいる、顔の見えない男へとぶつける、赤茶色のスーツの男。


 腹の底から発せられた、地響きのような声には、列車の粗暴な振動でも目を覚まさなかった男もさすがに目が覚めたのか、緩慢とした動きで顔の上に置かれた帽子を外しにかかる。


「……んぁ、どちらさん?」


 帽子の下よりそう尋ねたのは、齢が30の前半程度であろうかという男性の、まぶたの上がり切らない、眠そうな顔であった。

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