第238話 リリの容態
岩山の中腹にある洞窟の奥で、フェレとファリドが言葉を交わしている。
「……どう?」
「厳しい。運よく矢は心臓を外したが、片肺は射抜かれてつぶれてしまっている。なんとか傷がふさがるまで、持ちこたえてくれれば……」
さすがのファリドも、医術に明るいわけではない。書物でかじった応急処置は施したが、後はリリの生命力に任せるしか、なすすべがないのである。
「……持たせればいいだけなら、私に任せてくれればいい」
そうつぶやいてフェレが向かった先には、若い男女の姿があった。横たわって意識もなく、ひゅうひゅうと頼りない呼吸を繰り返すリリの左手を両手で挟み、血色を失った青白い顔に熱い視線を注ぎ続けるのは、もちろんハディードだ。
「……ハディード。貴方も、少しは寝ないとダメ」
「リリ殿が苦しんでいるのに、私が……」
「……ハディードが起きていても、リリは治らない。ハディードまで倒れたら、みんなが詰む、寝るべき」
仏頂面から放たれる言葉はぶっきらぼうで、口調も冷酷そのものだが、フェレなりに目一杯ハディードの身を心配しているのだ。もちろん敏いハディードとて彼女の気遣いを承知している、小さくうなずいて感謝の意を表しながら、すぐには立ち去らない。何か言いたげな風情に、フェレが視線を向ければ、一人語りのように言葉を溢れさせてゆく。
「私はまだ……女性を知りません。私にとって女性は、アスラン兄の母である側妃のようにつらく当たってくる存在か、皇子という身分にのみ惹かれてくる権勢狙いの妖怪みたいな存在のどちらかでした。私という人間を見てくれて、足りないところを指摘して、補ってくれて、共に同じ目的に向かって進んでくれるような女性など、いないと信じていたのです。だからひたすら政治の仕事に打ち込んで、色事など無縁でいたつもりでした……」
「……リリと、出会うまでは」
「はい」
いきなり核心を突いたフェレの言葉にその頬を紅くしつつも、素直なハディードは深くうなずく。
「……リドが言っていた。一緒に危険を潜り抜けた男女は、互いに惹かれあっていると勘違いすることがあるらしい。吊り橋効果というんだそうだ」
「わ、私は決してそんな浮ついた気持ちでは……」
「……そうだね、ごめん。ハディードは真面目な子だった」
皇子を相手に「真面目な子」とは、不敬極まりない発言なのだが……フェレに悪気はなく、受け取るハディードも、姉に褒められた弟のような、少し嬉しそうな顔をしている。
「……私は、リリにたくさん助けてもらった。だからリリを託する相手は、しっかり見極めたい」
「私では、ダメですか?」
「……ダメじゃない。ハディードはいい子、そしてリリのことが本当に好きだし、とても一途。きっと豪華な後宮に、派手な美女を並べたりもしない」
ストレートな言いように、皇子がさらに頬を染める。
「当たり前です。私は人生を一緒に歩いてくれる女性を、求めているのですから」
「……リリは元通りの身体に戻らないかもしれない。跡継ぎとなる皇子が産めなくてもいい?」
「私は妃を、子供を作る道具と考えてなどいません。もし子ができねば、サフラー叔父の孫から一人、養子をいただけばいいだけのこと」
ラピスラズリの瞳が真っ直ぐ見つめてくるのにやや気圧されつつも、ハディードは亡き兄と同じ青い瞳で、それに応える。
「……わかった。私はハディードを応援する」
「あ、ありがとうございます……ですが、リリ殿がうんと言ってくれるかどうかは……」
「……ハディードは意気地なし。リリの気持ちなんか、もう決まってる」
「え、そ、それって……」
鈍い皇子に応えることなく、フェレはリリの傍らに自分も横たわり、その身体をやわらかく抱いた。頼りなげなリリの呼吸音が安定し、寄せられた眉が安らかに緩む。心なしか、リリの身体が白く光っているような気がしてしまうハディードである。
「……大丈夫。私が魔力を注ぎ込んでいる限り、リリは遠い所へ行ったりしない。安心して、英気を養ってくるべき。ハディードの出番は、すぐ来るはず」
フェレの言葉に、なぜか全身から余分な力が抜け、同時に耐え難い眠気が押し寄せる。思えば一昼夜と半日、ずっとこの娘の手をとっていたのだから。
「は、はい、それでは、しつれ……」
そこまで口にするのが、精一杯だった。この真面目極まりないチェリーボーイ皇子は、糸の切れた操り人形でもあるかのように、床に崩れて……次の瞬間にはすでに、規則正しい寝息を立てていた。それを確認したフェレが、反対側の物陰に向かって、なぜか話しかける。
「……聞いてた、オーラン?」
「はっ」
「……私は、ハディードの味方。オーランは、どうする?」
答えは返ってこない。物陰から気配が静かに消えるのを感じて、フェレもリリに寄り添って、静かに眼を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「どうだった?」
洞窟の入り口で見張りをしていたファリドが、人の出てくる気配に気付いて声をかける。
「負けました」
「そうか……幸せになってくれるといいな」
「……亡きアリュエニス妃は、王とともに在って、幸せだったのでしょうかね」
「どうだろうな」
二人の男は、それからしばらく身動きもせず、沈黙の時を過ごしていた。
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