第237話 身を挺して

「さあ陛下、こちらへ!」


 最前面で身体を張っていた皇帝アレニウスを、ファリドがやや乱暴に引き戻す。そこにはなぜかハディードを含む侵入者一行が、一箇所に固まって立っていた。


「父上もお早く、ここへ!」


 ハディードが、彼に似合わぬ強引ぶりで父皇帝をその腕に抱き込む。その次の瞬間、皇帝は自分の足元が揺らぎ、身体がふわりと浮き上がるのを自覚した。もちろん足の下には、おなじみフェレの魔術でこさえた砂の膜があって、一行を空へ向かってゆっくり、しかし確実に持ち上げているのだ。


「な、何だこれは!」


「大丈夫です、これも『女神の奇蹟』ですから!」


 息子にそうなだめられても、初見の彼が冷静でいられるわけもない。足元に何かがあるようには見えないというのに、彼の両足は確かに何かを踏みしめており、その「何か」が彼をゆるやかに上方に運んでいる……その気持ち悪さが、剛毅な皇帝の背筋に、冷や汗を流させている。。


 その驚きは、見上げる兵士たちも同様である。曲者どもがふわふわと上空に昇っていこうとしているさまは、まるで神の御業であるかのように見えたのだ。


「ひるむな! あのような悪魔の業に惑わされるな、弓隊、奴らを射よ、急げ!」


 その命令は、兵たちを我に返らせた。さすがは軍事強国というべきか、いくら混乱していようと指揮官が命じさえすれば、反射的に身体が従うというところまで、鍛えに鍛え抜かれているのだ。


「構えっ」


 弓兵が、矢をつがえてまさに弓を引き絞ろうとしたその時。


「うぐっ」「ぐふっ!」「ぐ……」


 兵士たちが短い呻き声とともに、次々と砂の上に斃れていく。ある者は胸から、またある者は腕から、血を流しながら。まるでそれは神が下す天罰のごとく、理不尽かつ冷酷に彼らを打ち据えていった。


「いったい何だ、この攻撃は!」


 運よく初撃の天罰を免れた兵が混乱しつつも周囲の地面を見れば、そこには血に染まった小さな鉄球が散乱している。


「なかなか全滅させるのは難しいね。狙い撃ちしていかないといけないけど……それやってると発射が遅くなっちゃうしなあ」


 子供にしては低いその声で冷静な分析をするのは、もちろん上空のマルヤムである。人を傷つけることを恐れる母とは一線を画し、目的があるなら他人を殺めることもやむを得ないと割り切るそのメンタルは、ファリドの教育のたまものか、あるいは祖父アフシンから引き継いだ、魔族の血のなせるものか。


 彼女は、革袋いっぱいの鉄球を一気に虚空にぶちまけ、見下ろす地面に向かってそれを思いっ切り魔術で加速させ、狙いなどつけることなくただ叩きつけたのだ。鉄の豪雨に打たれた兵士たちが、何でたまろう。たった一撃で五十人近くが即死し、ほぼ同じ数の兵が負傷して戦闘能力を失った。


「いや、十分すごいぞ、マルヤム。俺たちの目的は逃げ切ることであって、敵を殺しつくすことではないからな……」


 点ではなく面で敵を制圧するこの魔術は、戦においては極めて有効な武器になるだろう、まるで古代文明の時代に存在したという、機関銃のように。


「……マルヤムにあまり残酷な技を教えるのはやめて。オーラン、わかった?」


 口調は怒っているようだけれど、フェレも娘の術に、いたく感心しているのだ。その口元は、わずかに緩んでいる。


 そうしているうちにも、砂の膜は彼らを、少しづつ空に向かい押し上げている。もちろんフェレの魔力をもってすれば一気に上昇することもできるのだが、それをやってしまうとこの技に慣れていない皇帝とハディードが、貧血で失神することが確実……倒れられるわけにもいかないので、ゆっくりしか動かせないのだ。


 もちろん、生き残りの兵の中には彼らに向かって矢を射ようとする勇者もいる。だがそんな奴が二人や三人いようと、マルヤムにとっては単なる標的でしかない。手元に残った鉄球を一粒ずつ落としてフンスと気合を入れれば、それは正確に射手の眼を撃ち抜いていくのだ。


「うん、もう立ち向かってくる敵はいな……」

「ハディード様っ!」


 マルヤムが安心したように発したつぶやきに、リリが上げる悲鳴のような声がかぶさった。次の瞬間に一行が見たのは、ハディードの身体にひしとしがみつくリリの姿と、その背中に突き刺さる、長く黒い矢。


「あいつっ!」


 マルヤムが鉄球を弾き出したと見えた次の瞬間、浴室がある建物の陰にいた屈強な男が、血を吐いてくずおれた。物陰に隠れて機会をうかがい、彼らの主君アスランのライバルを一矢で倒すべく、必殺の射撃を試みた手練れである。


 その試みは、「ゴルガーンの一族」の精鋭である危険感応力抜群の、リリによって阻まれた。だが彼女とて、皇子に迫る矢に気付いたのは、まさにギリギリのタイミング……ハディードを守るためには、自分の身を盾にするしか術がなかったのだ。


「リリ殿!」


「で、殿下……ご無事で……ごほっ」


「どうして、私などのために……」


「貴きお方のためにこの生命捨てるは、我が一族の務め……フェレ様の花嫁姿を見られなかったことだけが、ざんね……ごほごほっ」


「リ、リリ殿!」


 青年の悲痛な叫びが、虚空に響いた。


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