第236話 包囲されてる!

「曲者だ! 敵が本館に侵入!」「捕らえよ!」


 兵士たちの怒号が響く。皇帝の身を取り戻したものの、館はまだ二百をはるかに超える兵が詰めているのだ。ここから逃げ出せて初めて、皇帝奪還成功と言えるのだ。


 地上の広間に続く階段は、オーランたちが難なく制圧した。狭い階段は一対一の戦いになる、屋内の近接戦闘に長けた「ゴルガーンの一族」に敵し得る兵は、こんな呑気な場所に配置されてはいない。


 だが、広間にはすでに、数十人の兵がひしめいている。オーランたちの武術はあくまで暗殺者の個人戦向け、敵の重囲を単騎で切り開く英雄のそれではない。


「父さん、私がやる?」


 腰に付けた革袋をじゃらりと鳴らして、上目遣いで聞いてくるマルヤム。ファリドは一瞬だけ考える風情を見せた後、ゆっくりと首を横に振った。


「いや、マルヤムの出番はもっと後だ。ここはフェレが適任だろう……辛いかもしれんが、頼むぞ」


「……ん。大丈夫、リドやマルヤムのためなら、頑張れる……ふっ、うんっ!」


 薄い微笑みを愛する男に送ったと思えば、ノーウェイトで魔術発動の気合を入れるフェレ。ほんの二十ほど数える間に、先程までうるさいほど響き渡っていた叫び声も、兵士が走り回る足音も、聞こえなくなる。階段に残る最後の敵を片付けたオーランが慎重にその先の広間を窺えば、そこには兵士たちが折り重なるように倒れていて、身動きすらしない。


「……行っても大丈夫。『真空』は解除した」


 後方からかけられたフェレの冷静な台詞に、さすがの「ゴルガーンの一族」も背筋に寒いものを覚えずにいられない。この術の恐ろしさは、何が自分に起こっているのかもわからぬまま意識を刈り取られることにある。オーランたちが日々積み重ねている苛烈な鍛錬も、それを防ぐために何の役にも立たないのだ。


 振り返ればそこに、安定の仏頂面で立つフェレがいる。顔だけ見ればそこに感情の揺れは汲み取れないが、その冷たい表情の下に激しい悲しみが隠されているのを察するほどには、オーランもこの主人と長い付き合いである。もうひとりの主人であるファリドが彼女の背中に静かに掌を当てると、強張っていた頰が緩んで、わずかに血色が差す。


「さあ、早く行こう。応援の兵が、また押し寄せてくるぞ」


「……ん」


 ファリドが促し、一同は広間を突っ切って進んだ。ゴロゴロ転がっている兵たちの身体に一番驚いているのは、「真空」の魔術を初めて見せつけられた皇帝アレニウスである。


「ここまでの業を振るうのか……兵らが女神イシスと崇めるのも、故なきことではないな」


「ええ、ちょっとした国なら滅ぼせるかもしれませんね。ですがテーベが東方に野心を持たぬ限り、フェレの力が陛下に向かって振るわれることはありません、それをご理解いただける機会がこうしてできたのは幸甚でした」


 わざわざ脅しなど入れてしまうファリドである。彼とて進んで大国の君主に喧嘩を売りたいわけではないが、この皇帝がこれまでやってきたことを思えば、どうしても信用できないのだ。間違っても裏切るなよと念を押したくなるのも、仕方ないではないか。そんなファリドの心理に気づいたのか、厳格と言われていたはずの皇帝が、にやりと笑った。


「もはや貴公たちをどうこうしようという気もなければ、イスファハンを攻めようなどという野心も無いわ。儂は若き時分よりテーベを強国たらしめんと考えてきたつもりだが、どうも身内すらまともに育てることができなかった。違うやり方をするであろう次代の者に、任せる時期が来たのであろうな」


 それは、ハディードに譲位するということなのか。そう問いたいファリドだが、そんな余裕もない。本館を出たところには、まさに百人を超える敵が待ち受けていたのだから。


「ちょっとだけ時間を稼いでもらえませんか」


 ぶっきらぼうなファリドの言葉に小さくうなずき、皇帝が一歩を踏み出す。


「諸君! 儂の顔を見知っておろう。皇帝アレニウスである!」


「え、本当なのか」「確かによく似ているが……」


 兵たちが半信半疑のていで、がやがやと騒ぎ出す。


「主君に剣を向けるのか! 控えよ!」


 さすがは長年軍事国家で専制君主を張っていただけのことはある。その声には威厳があり、ホンモノだけが持つ風格があった。すでに幾人もの兵士が、剣を捨て地面にひざまずいている。だがそれは、彼らが何も知らぬ兵隊であればこそ。事情を知っている将校は、自らの保身のために動いた……もはや反逆の事実は消しようもない、ならばその証拠である目の前にいるこの男を、消すしかないと。


「馬鹿者ども! こんなところに陛下が現れるわけはない。こ奴らは犯さざるべき離宮に侵入したのみならず、我らが同胞を殺した重罪人だ! 構わぬ、押し包んで殺せ!」


 将校の言葉は、「皇帝陛下」に向きかけた流れを、絶妙に引き戻した。むべなるかな、兵士たちは皇帝の姿など、先週パレードの先頭で豪華な場所に乗っているのをはるか遠くから眺めたくらいの記憶しかないのである。本人かどうかなど確信が持てるわけもない。それより直属の上官に逆らった時の懲罰のほうが、よっぽど恐怖の対象なのだ。


「そうだ、こんな奴が陛下であるはずがない!」「陛下を騙る不届き者を討ち取れ!」


 兵たちがもう一度剣を取り、敵意に満ちた視線を向けてくる。これをもう一度逆転することは厳しかろうと、ファリドは悟る。だが、皇帝が稼いだちょっぴりの時間を、家族たちは有効に使っていた。


「……準備できた」

「私も大丈夫だよ、父さん!」


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