第235話 皇帝救出
「……ふぅ、んっ!」
フェレの短い気合が聞こえたかと思うと、扉の向こうで嵐が吹き荒れた。それはテーブルクロスやクッションが宙を舞うレベルのものすごい風速であったが……砂漠の嵐に慣れたテーベ人には、それほどのインパクトをもたらすものではない。だが何故かその嵐は、赤味を帯びた嵐だったのだ。
「うっ、眼が!」「何だこれは!」
そう、皇帝を傷つけるわけにいかないこの襲撃に、ファリドは想い出深い魔術を使ったのだ。フェレが初めて「身体強化」以外の魔術を使って戦った時の、それを。何のことはない、大きな布袋一杯の唐辛子パウダーを、風に紛れて敵にぶつけたのだ。
「うぐっ」「くそ、何者……うわぁっ」
単純な仕掛けだが、まさに初見殺し。視界を奪われては、戦闘行動はできない。皇帝を取り囲んでいた男たちは次々と、為すところなくオーランとリリに致命傷を与えられて行った。しかし、例外が一人だけいたのだ。
「動かないで! 動けば皇帝の命はないわよ!」
皇帝アレニウスの首をしなやかな腕で締め上げ、短剣を突きつけているのは、若い女。おそらくは身の回りの世話をする侍女と監視役を兼ねていたのだろう。
「さあ、武器を捨てなさい!」
女が片目だけを開いた姿で、強気な声を浴びせる。男たちがみな唐辛子トラップにやられて討ち取られる中、彼女だけは直感的に片目をつぶり、初見殺しの赤い嵐をしのいだのだ。その冷静沈着ぶりには、ファリドも感心せざるを得ない。が、この事態は彼にとっても想定外である。
「早く! さもないと皇帝を……」
女は短剣の先端を、皇帝の首に当てる。ぷつりと血の滴が、そこから溢れ出す。
「うむ、さすがに陛下を害されると、いろいろ困るのだが……」
「なにを呑気に! これを見よぐぶっ……」
勝ち気そうな声が、不意に途切れる。それは、声を発するべき喉元に、目にも留まらぬ速度で何かが撃ち込まれたゆえのこと。間を置かず二発目が眼窩から入って脳を貫き、女は皇帝の身体を放して、崩れ落ちた。
もちろん、マルヤムの鉄球である。彼女はあえて初動に加わらず、オーランとリリが仕損じた敵あらば片付けるよう、待ち構えていたのだ。もちろん、ファリドの指示である。
正確に急所をえぐる凄技に、ファリドはあらためて感心する。かつての時代には強力な銃があって鉛の弾を撃ち出して敵を殺めたと言うのだが、マルヤムの「銃」は狙いを付ける必要もなく、続けて何発でも違うところへ、違う方向から撃ち込めるのだ。相手が少数である場合においては、最凶の暗殺者であろう。
「父上っ!」
「む、お、お前は……」
感動的な再会といきたいところだが、皇帝アレニウスもフェレの唐辛子攻撃に眼をやられ、涙をだらだら流しつつも、まぶたを開けられない。リリが素早く駆け寄って皇帝の頭を支え、フェレがかたわらに置かれていた水差しを取って、この高貴な男の眼を、慎重に清めていく。
「父上! お身体に何か異常は!」
「ああ、何ともない。奴らも、儂を痛めつけて言うことをきかせるところまでは、腹が据わっていなかったようだな。ただし、眼がまだ、しみて仕方ないのだが……」
「いや、あ、それは……」
「……それは、私のやったこと。ごめんなさい」
厳格な父の圧力にキョドるハディードを制し、ペコリと小さな頭を下げるフェレの姿に毒気を抜かれたような皇帝アレニウスである。相手が皇帝であることを意識しているやらいないやら、畏まるでも恐れるでもなく、ただ不自由をかけたことだけ素直に謝っているのだ。
イスファハンにいた頃はまだ王族に深い敬意を払っていた彼女も、礼節など気にしないムザッハルや身分など関係なく腰の低いハディードと親しく付き合ううちに、皇室に払う儀礼的敬意など、どこかに捨ててきてしまったようだ。もっとも、彼女が本気で尊崇するのは、もともとファリド一人だけしかいなかったわけなのだが。最初はポカンとしていた皇帝も、表情を崩して笑みを浮かべる。
「いや、アレのおかげで助かったのだ。お主らは……『女神』と『軍師』よな。ムザッハルの盟友と聞いていたが……ハディードにも力を貸してくれているのか」
「はっ、ハディード殿下も、我らが『友』でありますれば」
フェレと違って、きちんと敬意を払って皇帝に対するファリドである。何しろ、形式上ではあるがテーベの最高決定権は、まだこの男にあるのだから。
「ふむ、ではその『友』に問う。お前はこの愚かな父を救い出して、その後何をしようとしているのか?」
「はい。アスラン兄上にテーベの未来を委ねるわけには参りません。可能な限り早く陛下に帝都へ還御頂き、国政を正しき道に戻すことが目下の目的です」
「うむ……それは、お前が次代のテーベを担うということか?」
「陛下のお許しが、頂けるのであれば」
ひざまずいていたハディードが、その顔をまっすぐ父に向ける。幼き頃より一度も野心を外に出していなかったこの末弟の決意に、厳格なはずの皇帝が、口元を緩めた。
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