第225話 脱出
「伯父上、よ、世直しと言っても……軍はアスラン兄の手に落ち、我々の味方になってくれるのは……」
「そのために、名高き『軍師』と『女神』を伴ってきたのであろう?」
「ですが私には武勇がございません、アスラン兄の暴虐に憤る者達を糾合できるものか……」
いかにも武人らしい風格を備えた皇兄を前にしてちぢこまるハディードの姿は、確かに貧弱なものに見える。しかし皇兄は口許を緩め、優しげな声色になって語りかけた。
「ハディード、お前には君主の器量が備わっておるよ。でなければ、テーベに未曾有の大勝利をもたらし、今や兵士も民衆も口々に讃える二人の英雄が、お前とともにあるはずがなかろう」
「彼らは、友として……」
「それよ。テーベの代々皇帝は、部下を威圧して従わせ、外敵は殺して排除してきた。だが、君主のあり方は、そのようなやり方だけではないであろう。優れた者を友とし、近隣国と馴れ合わぬまでも殺し合わない皇帝も、また素晴らしいものだと思うのだがな」
「伯父上……」
ハディードは、涙をこぼさんばかりに震えている。いつまでも見ていたいような感動の風景だが……ファリドとしては、そういうわけにいかない。
「皇兄殿下、ハディード。国の行く末はともかく、まずはこの城砦を脱出しましょう。我々は、三千の兵に囲まれているのですからね」
「あ、そ……そうだった。伯父上、共に参りましょう、頼れる我が友の力を借りて」
「うむ。名高き英雄たちの活躍、ぜひ見せてもらおう」
厳格という言葉を絵に描いたような皇兄の顔に、愉快げな笑みが浮かんだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「来る時はこっそりだったが、帰る時はそうもいかなそうだな」
「外はもう騒ぎになっているようだの」
アフシンの耳は、壁を幾枚も突き抜けた先で、兵士が慌て騒ぐ声を聞き分けていた。密かに殺した歩哨を、交代の兵が見つけたのだろう。
「屋外に出てしまえばフェレがなんとかする。そこまで頼むぞ、オーラン、アフシン殿」
「御意」「任せておけばよいわ」
男たちの低い返答にうなずいて、ファリドはリリに向き直る。
「不本意かもしれないが、殿下たちの護衛を頼む。フェレの身は俺とマルヤムが守るから」
「私はフェレ様の……」「大丈夫だよ! 私の魔法でフェレ母さんを守るよ!」
不満そうなリリに、マルヤムの少女にしては低い声がかぶさる。その瞳が役目を与えられる喜びに輝いているのを見て、リリが小さくため息をつく。
「わかりました、殿下たちの身はお任せを」
その言葉に、鋭い風鳴りが重なった。それは皇兄が衛兵の腰から中剣を抜き取って一振りした風鳴りだ。何気ない仕草で振るった一颯の鋭さに、ファリドも驚く。
「なに、儂も二年前までは大将軍と呼ばれておってな。自分の身くらいは守れるわ……その美しいお嬢さんは、ハディードの面倒を見てやってくれ」
リリは、何も言わず皇兄に一礼した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ファリドとフェレは、先程から一人の敵とも遭遇していない。先行する二人が、ことごとく片付けているからだ。並外れた隠密能力に、アフシンの夜目とオーランの身体能力が加われば、二〜三人の敵なら声を出すことも許さず、生命を奪うことができる。
その二人が、足音も立てずに駆け戻ってくる。
「ちと人数が多い。騒がせずに殺すのは無理じゃ、嬢ちゃんの出番かの」
確かに廊下の向こうから、六〜七人と思しき慌ただしげな足音が聞こえる。戦えば勝てるであろうが、大声を上げられたら最後、三千の兵が押し寄せてくる。さすがに彼らといえど、動きを制約された建屋内で、無数の敵に囲まれては詰んでしまう。
「……ん」
フェレが小さく眉をあげると、見た目には何も見えないが、周囲の雰囲気が変わった気がした。待つことしばし、眼前の角を曲がってきた兵がファリドたちの姿を見つけ、警告を発しようと息を吸い込み……だが、その口から声は出てこなかった。次々と後続の兵が突っ込んでくるが……彼らは判で押したように廊下の角を回ったところで、気を失って倒れてしまうのだ。
「お見事」
ファリドが称賛したのは、もちろんフェレの「真空」である。任意の場所から空気を抜く「真空」は屋内の、それも周囲に壁が迫る廊下や小部屋での隠密戦闘と、実に相性がいい。そのエリアで一呼吸してしまえば多くの対象は気を失い、万一叫ぶことができてもその音は空気がなければ、伝わらないのだから。
「これは……特殊部隊にとって垂涎の能力だな。敵うわけがない」
顎をなでながら、皇兄が感心したようにつぶやく。いかにも軍人らしい発想だが、率直な称賛の思いがフェレに向けられていることは間違いない。褒められた当のフェレは、悲しげな風情でラピスラズリの眼を細めているのであったが。
「済まないなフェレ、また悲しい思いをさせてしまった」
「……問題ない。これはリドのため、そして、マルヤムのため。そう思えば、私は何万人でも、人を殺めることができる」
このヤンデレぶりも、もはや鉄板である。
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