第224話 囚われ人

 暗闇の中ではあるが、皇子の顔から血の気が引いている。


 そう、眼の前で起こった殺人は、彼にとっては衝撃的であった。もちろん彼とて、さきの戦では軍監として参陣し、テーベの軍がカルタゴ兵をほふる様子をつぶさに見ている。しかし、息遣いが聞こえるほど近くで、しかも先程まで自分の手を引いてくれていたうら若い女が、表情も変えず屈強な男を絞め殺すシーンの生々しさは、それと比較になるようなものではなかった。


 程なく、入口の扉が内側から小さく一つノックされる。オーランが二つノックを返すとゆっくりと重々しい木の扉が開き、血染めの短剣を持つ右手をだらんとたらしたアフシンがうっそりと現れる。


「アフシン殿」


「貴人は、おらなんだな」


「仕方ない、本陣に向かうしかないだろう」


 小さなため息をつきつつファリドが応えれば、一同は無言で次の標的へ移動する準備を整える。まだ青い顔のまま動けないでいる、皇子を除いて。


「これは、我々の生業です。私どもは幼き頃より、こうやって人を殺す技を仕込まれておりますから」


 細かく震えるハディードの掌を左手で取って、リリがクールに宣言する。やがてそこに右手が添えられ、柔らかく包まれる。皇子はごくんと唾を飲み込んで、眼前の女を見つめた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「さすがに厳重だな。さっきのようにこっそりとはいかないか」


 ファリドがため息をつく。暗闇に包まれる城砦の中でも、本陣の周囲だけは赤々と篝火が焚かれ、歩哨が巡回している。


「フェレ、悪いが頼む」


「……ん」


 ラピスラズリの瞳を二人の兵に向けてふっと小さく息を吐くと、歩哨は短くもがくと、折り重なるように砂の上に倒れた。もちろん彼女が「真空」の魔術で、彼らの周囲から空気を抜いたゆえのことである。動かなくなった兵士の姿を見つめ、フェレが一瞬切なそうな表情をする。


「……大丈夫。リドがやれって言ったら、それは正しいこと」


 気遣わしげな視線を向ける愛する男に向け、色濃い蒼の眼が薄く微笑んだ。


 それから十数人の兵士に遭遇したが、アフシンとオーランが屠っていった。相手が単体であれば、声も出させず確実に殺すことは、彼らにとって容易いことである。複数になると騒がれる危険を避けるためフェレの「真空」に頼る必要があるが……幸いなことにそのケースはもうなかった。アフシンたちもフェレの本来繊細な性質を熟知している……人を殺傷するという極度のストレスを、愛する男に依存することで辛うじて麻痺させている、彼女の頼りない精神を。


 そして、ようやく。


「おそらくこの扉の先が、特別房です」


「中にも人の気配がある。囚われ人がいるのは間違いない」


 入口に立つ見張り兵の胸を小剣で貫いたばかりのオーランが、低くつぶやく。うなずいたリリが、重厚な木扉を軋ませもせず、真の無音で開けていく。こんな盗賊技も、彼ら「ゴルガーンの一族」が得意とするところなのである。


「お主ら、何者だ」


 闇の中から、声が響く。見張りを倒す際にもほとんど音は立てていなかったはずだが……この囚われ人はかなり鋭敏な感覚を持っているようだ。


 リリが、静かに灯りをつける。ファリドたちも害意がないことを示すためにひざまずく。静かに面を上げて見上げた囚人の容貌は、残念ながら皇帝アレニウス二世のものではなかったが……何となくムザッハルに似た面影がある。


「お、伯父上!」


「む……ハディード、お前がどうしてここに……」


「ムザッハル兄さんが害され、私は出仕を止められました。アスラン兄に誅殺されるのを持つわけにもいかず……『軍師』と『女神』の助力を得て帝都を脱出した次第」


「うむ、奴なら、そういう行動に出るであろうな……」


 初老の囚人が銀色の髭を撫でる。


「ハディード、このお方は?」


「ああ、失礼しました。この方はサフラー様、我が父アレニウスの兄であらせられます」


「皇兄殿下……そうとは存じませず失礼を」


 ファリドが膝をつけば、フェレも優雅に拝礼し、マルヤムも必死で愛する母の真似をする。もちろんリリたちは、音もなく壁際まで下がり、平伏している。アフシンはこんな雰囲気が嫌いなのであろう、素早く部屋を出、見張り役を務めているようだ。


「いやいや、今の儂は囚われの身でな、そういう虚礼は無用だ。それよりハディード、お前たちはどうしてここへ?」


「皇帝陛下の行方が知れませぬ。おそらくいずこかへ軟禁されているものと推察いたしますが、この城砦か、あるいは南渓谷の離宮かと……」


「そうか、儂だけではなくアレニウスまで……ついに愚か者のアスランめ、道を踏み外したか。宰相あたりに焚き付けられたものであろうが……」


 皇兄だというのになぜか日焼けした男の眉間に、深い皺が寄る。しばらく考えに沈んでいた彼が、何か吹っ切れたように視線を上げて宣言した。


「これは、世直しをせねばならぬな」

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