第223話 侵入

「ふ、うんっ!」


 いつものことながらフェレの魔術は呪文の詠唱などを必要とせず、気合をひとつ入れるだけで発動する。砦の周囲で砂煙が一気に上がるが、夜の闇に紛れて起こったそれは、守備兵に気付かれることはない。


 舞い上がった大量の砂はちょうどファリドたちの前にある城壁の外側に静かに降り積もる。ハディードが胸の中で三百ほど数える間に、眼前の地面から城壁のてっぺんに向かって、緩やかなスロープが形づくられた。


「これは……」


「フェレ様にとってこんなことは児戯ですわ、それより声を抑えて下さいませ。万一にも守備兵に聞こえたら、フェレ様の身に……」


「む、申し訳ない」


 思わず声を上げたハディードを、低い声でたしなめるリリ。相手は皇子だというのに、フェレの安全が絡むことに関しては、まったく遠慮する様子がない。だが立腹するでもなく素直に謝罪するハディードの器は、思っていたよりもかなり大きいようである。


 視線を緩めつつも、少し寂しそうな表情をするリリである。イスファハンでフェレの両親やメフランギスを救出した時は、同じような城壁を彼女とオーランのタッグによる軽業ジャンプ一発でクリアしたのである。あれから何年も経ったわけではないのだが、彼女の身体はふっくらと女性らしさを帯びた。華奢な軽業師のようなかつての瞬発力が失われつつあり、あの素晴らしい跳躍は、もうできなくなっている。敬愛する主人たちが今、リリに対しそんなことを求めているわけではないと承知していながらも、自分がフェレに尽くす役割が縮小していくことを恐れる彼女なのだ。


「参りましょう、これならハディード様でも登れます」


 ハディードが不思議そうな視線を向けているのに気づいたリリが表情を引き締め、照れ隠しのように皇子を急かした。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 ロープを伝って城砦の内側に降り立ったファリドたちは、罪人が幽閉されることがあるという石塔へ向かっている。夜目が利くアフシンが先頭に立ち、歩哨の眼を盗みつつ障害物のないルートを選んでくれているのだが、こういう隠密行動に慣れていないハディードは、一度ならずつまずいてよろめき……倒れそうになるところを支えるのは、リリの役目である。


「気を付けてください」


「……かたじけない」


 塩対応侍女と低姿勢皇子の掛け合いを横目に見て一瞬だけ頬を緩めたファリドだが、見上げた石塔の高さに眉を曇らせる。とてもロープを投げて届くようなものではなく、石壁は垂直に切り立ち、人間がよじ登れるようなものではない。


「どうだ?」


「うむ、最上階には窓があるの。嬢ちゃんと儂に任せよ」


 アフシンの自信に溢れた返答に、ようやく寄せた眉をくつろげるファリドである。


「儂が戻ってくる前に、入口の衛兵は片付けておくのだぞ、ゴルガーンの小僧よ」


「承知」


 短くオーランが答えたのを見たフェレが、小さく息を吐いてラピスラズリの眼を大きく見開くと、暗闇の中でも砂が舞う音がさやかに響く。


「ふむ、では行ってくるとしよう」


 魔族の老人が右足を少しだけ上げて虚空を踏みつけると、まるでそこに踏み台でもあるようにその靴が空中に留まる。そしてアフシンが左の足も不可視の踏み台に載せたことを確認したフェレがもう一つ短い息を吐くと、老人の矮軀がふわりと浮いた。そしてそれはゆっくりと暗闇の中、塔の上部に向かって上昇していく。もちろんこれは、イスファハン王都攻略の際には五百の兵を運んだ、砂のカーペットである。


「フェレ母さん、もう少し左」


「……ん」


「ちょっと前に……うん、そこ、そのまま上昇」


 祖父の血と一緒に夜目が利くスキルも受け継いだものであろうか、マルヤムが上空を見上げながらフェレに細かい指示を出し、そのたび確実にアフシンは塔の最上部に設けられた明り取りの窓に近付いていく。やがてその姿は、狭小な開口から塔の中へぬるりと入りこむ。


「爺さんは成功したか……ならば我らも負けてはいられぬな」


 低くつぶやいたオーランは平然としたものだが、こんな曲芸を初めて見せつけられたハディードは平静ではいられない。


「あ、あれは……」


「もちろん、フェレ様の力です。それより……静かにしていて下さい。衛兵に気づかれます」


「すまぬ……」


 クールに言い放つリリにやり込められる、ハディードである。その様子を一瞥したオーランが、塔の入口を守る衛兵二人に向かって、何かを放った。


「うん? 何か、音が……」


「したな。ああ、ネズミじゃないか、兵糧庫の方に行くと厄介だ、殺してしまおう」


「ああ、松明を持ってろよ、こう暗くちゃあ、かなわん」


 相棒に松明を持たせ、もう一人の衛兵がカサカサと音のする方向を探し始める。彼がネズミらしい小さな何かを見つけたその時、自分の影が急に伸びて、ネズミの姿に覆いかぶさって隠してしまう。それは背後から目標を照らしてくれていたはずの炎が、地面に落ちたということ。


「おおい、やっと見つけたっていうのに……」


 振り向いた衛兵は、それ以上言葉を発することができなかった。彼の頸部に細引きが食い込み、締め上げてきたからである。振りほどこうと身をよじっても、背中にぴったりと張り付いた小柄な何者かは、その身体を最も有効に使って、さらに糸を締め上げてくる。


「くっ、くぉっ……げふっ……」


 衛兵の眼に、背中に短剣が突き立った相棒がうつ伏せに倒れた姿が映ったけれど……間もなく彼の意識は、闇に沈んだ。

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