第222話 国境の砦

 眼前には、赤茶けた砦が、偉容を誇っている。


 王都にすら防壁を築かない攻撃一辺倒のテーベにおいても、前線である国境の守りだけは別である。日干し煉瓦を組み上げた城壁の内側に土山をたっぷり積み上げた、堅固な守備力を誇る城砦に、思わずやれやれとため息をつくファリドである。


「ハディード、陛下が監禁されているとすれば、どのあたりだと思う?」


「石塔の上部に独房があり、本陣の地下には貴人用の特別房があると聞いています、そのどちらかでしょう。罪を犯した貴族などは、塔に閉じ込められることが多いそうですが……」


「どっちが本命かは、実際に確かめてみるしかないってことか。騒ぎにならないように攻略するなら、本陣を後回しにしたほうがいいんだろうな」


 ファリドとハディードが、短く言葉を交わす。そう、結局この皇子も、帝都を逐電したファリド一行とともに行動しているのだ。


 もちろん帝都に残る選択肢もあったが、相手は猜疑心の塊のようなアスランだ。これまで野心を一切見せず、文官としての役割に専心する様子をアピールし続けていたハディードといえど、この状況になってしまえば皇位継承権二位、立派な邪魔者として認識されるだろう。いわれの無い罪で捕縛され断罪されることも、容易に想像されてしまう。それならばさっさと逃げ出して、方向性がかなり偏ってはいるが過剰な戦闘能力を誇るファリドたちとともに行動するほうがまだ安全であると、相談した結果である。


 文官暮らしで体力などからっきしの彼を連れて行軍すれば確実に速度が落ちてしまう。二時間も進めば完全に息が上がり、砂地に寝かせてはリリが甲斐甲斐しく看病をする羽目になる。とにかくフェレを優先順位一位に置く彼女が皇子を見る目はクールなものだが、彼を連れて行くのはやむを得ないというのが、ファリドの判断である。ハディードを失ってしまったら、平和に帰国する未来図が、完全消滅してしまうのだから。


 そうやって足を引っ張りながらも、意外なほど細かい彼の記憶力は、本来厳しいはずの乾燥地域における人目をはばかる旅を、実に楽にしてくれている。移動途中にひっそり立ち寄って食料の補給ができるよう、領主がアスラン寄りではないオアシスを教えてくれたり、無人となったが生きている井戸が残っている廃村の場所を知っていたり……内政官僚の高官とはいえ、その博覧強記ぶりには驚くばかりである。


 そんなわけで帝都脱出後一週間を掛けてたどり着いた国境の砦でも、彼の記憶力は十分に役立った。皇帝が閉じ込められていそうな場所を二ケ所に絞り込んでくれるだけでも、大助かりである。砦には三千を超える兵力が詰めているのだ、闇雲に次々と建物をしらみつぶしにしていったら、どれだけの兵を殺さねばならないか、想像するだけでも恐ろしいものがある。


「まあ、明るいうちに突撃したら大騒ぎになる。暗くなるまで待とう」


「……そう思って用意しておいた」


 ぶっきらぼうなフェレの声にファリドが振り向けば、岩陰に敷かれた薄いラグの上に、すでに人数分の温かい茶が並べられていた。フェレとマルヤムのそれには、たっぷりの砂糖がリリの手で添えられている。


「こ、こんなところで、呑気に茶など……」


「ま、夜まで時間はたっぷりある。頂くとするか。ハディードは疲れただろうし、寝ていてもいいぞ?」


「いや、そういう問題ではなく……こんなところでどうやって茶を淹れる湯を沸かしたのです?」


「ああ、ハディードは初めて見るのだったな。フェレは火を使わずに、一通りの料理ができるのだぞ」


 そう、彼女は空気の「粒」が運動する速度を上げることで、望む温度の熱風を作り出すことができる。加熱したい対象物にその風をまとわせれば、サモワールの湯も沸かせれば、食材を直に焼くことも、自由自在にできるのだ。もちろん、そこには精密な魔術制御が欠かせず、異常なレベルの修練が必要だったわけであるのだが……「ファリドを喜ばせたい」の一心で、やや偏執的な努力を重ね、この領域に至ったフェレなのである。


「うん、美味い。また淹れ方が上手になったんじゃないか?」


 愛する男からの率直な賛辞に、色白の頬を一気に桜色に染めるフェレは、未だ物慣れぬ少女の如くである。イスファハンではアナーヒター女神に、そしてテーベでも女神イシスに例えられる超絶魔術師も、ファリドの前ではまさに飼い主に懐きまくる仔犬のごとく……思わずあんぐりと口をあいてしまう皇子である。


「うん、どうしたハディード? 早く飲まぬとせっかくの茶が冷めるぞ?」


「いやはや、あのクールな女神様が……いやいや、何でもありません。独り者の私が、お二人の仲睦まじさに少々、あてられてしまっただけです……」


「そんなか?」「……普通だと思うけど」


 何やら無自覚な返答をしては、また視線を交わし合う二人に、生暖かい眼を注ぐしかない皇子様であった。

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