第226話 撤退戦

 ようやく本陣の建物を出たそこは、厳戒態勢であった。


 あちこちに赤々と篝火が焚かれ、まるでもう朝が来たかのような明るさである。おそらく叩き起こされたのであろう兵士たちはすでに完全武装し、指揮系統にも混乱は見られない。あちこちで不審者を探す命令の声が飛び、百を超すグループが手分けして城砦内の哨戒を開始している。


「これを突破するのは、この人数では難しかろう、儂が兵どもの目を引くゆえ……」


「いえ、そこは大丈夫です、こういう場面でこそ、フェレの能力が活きますから。やることはわかってるな、フェレ?」


「……ん」


 皇兄が身体を張ろうと決意するのを、静かに押し止めるファリド。愛する男の信頼に、短く答えて、発動の気合を入れるフェレ。


「ふっ、んっ!」


 静かに、風が起こる。そしてそれは、時を追うごとに強さを増す。気がつけばそれはもう突風と言うべきものとなった。篝火も松明も強風に飛ばされ、わずかに残った燃えさしの明かりも、舞い上がる砂煙が掻き消す。


「さあ、この隙に城砦を出ましょう」


 皇兄は驚く。城砦の中に時ならぬ砂嵐が吹き荒れているというのに、彼らの周りにはそよとも風が吹いていないのだ。


「こ、これは……魔術なのか?」


「ええ、これが皆さんの称賛する『女神』の力です。急ぎましょう」


 説明している間も惜しく、ファリドが急かす。皇兄はさすがに軍人、すぐに確かな足取りで城門に真っ直ぐ向かっていく。一方頼りにならないのがハディードである、ままならぬ視界に足取りは乱れ、結局はリリに手を引かれて、よちよちと子どものようについていくだけだ。


「申し訳ない、リリ殿」


「詫びなど不要です、それよりちゃんと歩いて下さい」


 貴人が相手という意識がまったくないかのような、塩対応のリリである。彼女にとっては、ファリド一家以外の者は、みんな一山いくらの扱いなのだ。


 やがてたどり着いた城門では、不意に止んだ風に驚く兵が右往左往していた。風が収まったとて、暗闇が晴れるわけもない。十数人ばかりの兵はアフシンとオーラン、そしてリリの敵たり得ず、門はあっさりとファリドたちの手に落ちた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 城砦から十五分くらいも離れてから、フェレが嵐を止めた。いくら豊富な魔力を持つ彼女であっても、無数の空気粒を……古の科学では分子を……無理やり操り動かし続ければ疲れてしまうだろう。そんな心配をするファリドが気遣うような視線を向けると、フェレがへにゃりとした笑みを浮かべる。


「……この程度なら軽い」


「そうか、やっぱりフェレは凄いな」


 愛する男の賛辞に、暗闇の中でも頬を染める彼女である。


「いや、全くその通りだ。お嬢さんの力はまさに『女神』と呼ぶにふさわしい。噂を聞いただけでは兵たちが興奮のあまり話を盛っているのではと疑っておったが……」


 そこまで口にして、皇兄はファリドに向き直る。


「このお嬢さんだけではない、周りに在る者たちも、いずれ劣らぬ異能の者のようだ。そなたたちの力ならば、帝都を抜けて母国に脱出することなど、いと易いことだったのではないか?」


「ええ、その通りです。ですが、我々があまたの兵を倒して逃亡したならば、間違いなくハディード殿下とムザッハル殿下に、何らかの咎が課せられたでしょうね。我々はそれを避けたかった……できれば平和裏に故国へ帰して頂くように立ち回りたかったのですが」


「そうか、我が甥どもは、良き友を持ったものだ。儂も、そなたらが懐かしき地に帰れるよう、微力を尽くすとしよう」


「ええ、期待していますよ。ですがとりあえず、砦からの追手を撒くのが先決ですね。程なく夜が明けます、そうなったら数千の兵が、血眼になって我らを捕らえに来るでしょうからね」


「うむ、そうだな。まずは逃げるに如かずだ、不肖の甥よ、もう少し頑張らぬとな」


 皇兄が振り向いた先には、ハディードが今にも倒れるかと見えんばかりに、哀れな荒い息を吐きつつ、見かねたリリに支えられていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 ファリドたちは、砦から南東方向の岩山に向かっていた。この地域の岩山には天然の洞窟が多い。そこに一時的に身を潜めて追手をやり過ごすとともに、疲労困憊のハディードを休ませてやらねばならないのだ。おそらくあと一時間も歩かせれば、全く動けなくなるであろう彼である。


「はっ、はっ……どうか、先に行って……」


「そういうわけにいかないのは、わかっているでしょう。もう……仕方ありませんね」


「リリ殿、何を……」


 リリがため息を付きつつ、すでによれよれの皇子に肩を貸す。ひんやりとした若い娘の肌に触れた彼は一瞬びくりと筋肉をこわばらせたが、すぐに力を取り戻したかのように歩きを再開した。いくらハディードがインドア文官系といえども、若い女は「守りたい」対象なのだ。支えられて歩くことに忸怩たるものがあるのは、当然である。


「そう、やる気になれば歩けるではないですか」


 リリの言葉は相変わらず貴人に向けるものではないが、ハディードに向けた表情には、今まで見せていなかった柔らかな微笑が浮かんでいる。空が白み始め、薄明かりの中で見るそれは、恋愛など縁がなかったこの若者の心臓を鷲掴みにするもの。


 ハディードが不純な動機でやる気を増して大きく足を踏み出した時、アフシンの低い声が響いた。


「追手が来たようじゃな、数は、五十ばかり」

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