第214話 その後

「と言うわけなのだ。無条件でお前たちをイスファハンに帰すことはできなかったのは、申し訳ない。何とか二ケ月粘ってくれ、さすれば俺も全力で、約束の履行を父に迫るつもりだ」


 謁見を終えたその足でファリドの館を訪れたムザッハル。まだ陽も高い時間だ、彼の前には「女神の珈琲」が置かれ、リビングに芳香を振りまいている。


「そうか、ハディード殿と共に、俺たちの望みを叶えようと尽力してくれたのだな」


「うん、まあ……だが力及ばずだった、済まぬ」


「いやむしろ、二ケ月後であろうとも故国に帰してやろうと言う言葉が、皇帝陛下の口から出たことに、俺は驚いている。戦に便利な奴らなら、一生飼い殺して使いつぶせと言うのが、普通の覇王なのだがな」


 本気で申し訳なさそうにうなだれるムザッハルをなだめつつ、ファリドは珈琲のかぐわしい湯気を胸に吸い込みつつ、今後のことを考える。


 もちろんテーベ皇帝は絶対君主だ。一旦口に出したことでも反故にされる危険性は、決して低くない。それでも、彼が皇子に対してそんな約束をしたことは事実なのだ。


 ファリドはすでに、テーベから脱出する構想を、幾つか持っている。もちろんテーベには、本来虜囚の身でありながらまったく不自由ない生活を家族とともに送らせてくれている恩がある。それを思えばある程度は畏まらねばならないところだが、一連の戦で彼らがテーベに与えた利益は、計り知れないものだ。返礼には十分ではないかと彼は思うのだ、そろそろこの砂漠の国をトンズラし、懐かしいあの国に、帰るべき時が来たのだと。


 テーベの重囲を抜けてモスルまでたどり着くことはできよう。規格外であるフェレの魔術を十全に振るえば、突破できない障害の方が少ないであろうから。だが彼には気がかりな点があるのだ……彼らがテーベの軛から逃れた時、恐らくは彼らの世話役と言う名の監視役である皇子ハディードに、厳格な懲罰が下されるであろうということだ。もし皇帝が赦したとしても、長子アスランはそれを決定的な不始末として騒ぎ立て、ハディード、そして大っぴらに彼らと親交を結んでいたムザッハルを攻撃する材料に仕立てるだろう。


 もちろんファリドにとって優先順位の一位はフェレやマルヤムたち家族の生活であるのだが……できうるならば心を通い合わせた皇子たちに、迷惑を掛けずに立ち去りたい。そう考えて悩んでいた彼にとって、ムザッハルと、おそらくハディードが裏で糸を引いて勝ち取ってきた「二ケ月後」という条件は、実に魅力的に見えたのだ。たとえ二ケ月後に皇帝が言を翻したとしたらその時こそ脱出を強行すればよい……衆人の非難は、皇帝に向かうであろうから。


「条件は最高だ、ムザッハルありがとう。二ケ月か……その間、俺たちがアスラン殿下の命に従う義務も、ないわけだよな」


「もちろんだ。父から勅命が出た際には、従ってもらわねばならぬのだが」


 この後アスランが理不尽な命をファリドとフェレに下すことは、用意に予想できることだ。だがあくまで形式上、ファリドは皇帝直属の客将と言うことになっている。彼に「命令」出来るのは皇帝アレニウスだけなのだ。ムザッハルの戦いに従軍していたのは、あくまで「友情出演」なのである。


「よし、ならば俺たちは、俺たちの思う通りに行動する。もうこれ以上、フェレに辛い仕事を、させたくないからな」


 ファリドが優しい視線を向ける先には、珈琲を淹れ終えて隣に座るフェレがいる。彼女は自分の珈琲にミルクをたっぷり入れながら、安定の無表情を少しだけ崩し、頬を緩めた。


「……うん、私はまだ、人を傷付けるのが怖い。だけど大丈夫、リドがやれと言うなら、それは正しいこと。そう、大丈夫……リドが命じてくれさえすれば、私は何万人でも、人を殺めることができる」


「我々の『女神』様は、思いっきり怖いことを言ってるのか、それとも思いっきりのろけてるのか、わかんねえな」


 ムザッハルが思わず漏らしたつぶやきに、ファリドとリリが思わず吹き出した。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 ちょうどその頃アスラン王子の元を、宰相を始めとする取り巻きの高官たちが訪ねていた。まだ収まらぬ皇子は、取り巻きのうち最高位である宰相に、怒りをぶつける。


「畜生! なぜ父上は、ムザッハルごときを賞賛するのだ!」


「さすがに今回の功績は無視できないもの、やむを得ぬ仕儀かと……」


「あやつの功? ほとんどがあの怪しい魔女の魔術でもたらされたものではないか? あやつはただ魔女に命令を下しただけではないか!」


「そうは申せ、ムザッハル殿下が『軍師』と『女神』がご自身のため力を振るうよう、うまく立ち回ったことは事実。陛下のお言葉は、アスラン殿下に同じことができるかという問いでございましょう。早速我々も手を回しますゆえ、殿下もご準備を」


「準備だと?」


 アスランが意外そうな表情になる。宰相の言葉が、理解できないようだ。


「聞く限りによると、彼らは戦上手でありながら、戦を嫌っておるそうで。ムザッハル殿下は御自ら彼らの館に足を運び、カルタゴ侵攻を防ぐにあたっての協力を、辞を低くして頼みこまれた由。アスラン殿下は次期皇帝となられる身、そこまで卑屈になることはござりませんが、やはりご自身で説得されることは、必要かと……」


「あのような、怪しい連中にか……」


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