第210話 こういう手があったか

 アレキサンドリア湾の出口には、いまや常時ほぼ千隻のカルタゴ海軍が遊弋している。もちろん港から出る船も、入ろうとする船もすべて捕捉され、拿捕されるのだ。テーベ最大と言うよりほとんど唯一の貿易港を封鎖されて、国の経済にも、民の生活にも重大な支障が出始めているのだ。


 陸戦では全敗したカルタゴは、この作戦……海からの締め付けに命運をかけている。すでに陸では両国の間で緩衝の役目を果たしていた小国がテーベに占領されている。ほとんど無傷の陸軍が態勢を整えてカルタゴ本土になだれ込んでくる前に経済面でテーベを締め上げ、有利な講和を結ばねばならないのである。カルタゴの意気込みを示すように海軍の大半が、この戦役に投入されているのだ。


 ファリドたちが布陣した海岸から、ほんの二百メートルばかり先に、カルタゴの大船団が停泊している。どうせ手が出せないだろうと侮っているのだろう、堂々と錨を下ろしているのだ。船乗りたちの中にはテーベ軍に向かって、嘲笑や挑発の言葉を投げつける者たちも多い。


「なあファリド、お前の言う通りラクダ騎兵も含めて陸戦部隊を全部連れてきたが、この海はどうしようもないんじゃないか? 俺たちには船もない、どうやってあの忌々しい奴らに近づけばいいんだ?」


「そこが問題だよな。まあ、友を信じろ」


 半信半疑ながらも指示に従っているムザッハルを安心させるように、ファリドは笑ってみせる。そして彼がそっと背中を押すと、モルフォ蝶のように複雑な構造色を浮かべた黒髪をそよ風になぶらせながら、フェレがその視線を真っすぐ船団に向け、海岸に向かって歩いてゆく。


「おおっ、あれが噂の……」

「女神イシス様が再び我らに奇蹟をもたらしてくれるのか?」

「あのクールフェイスに、萌える……」


 若干アブない感想も混じりつつ、兵士たちが彼女に注目する。フェレは波打ち際で立ち止まると、ゆっくりシャムシールを抜いて、その剣尖を船団に向けた。


「……ふっ、うんっ!」


 フェレがいつもより少し強い気合を込めたのに気付いた兵士たちがごくりとつばを飲み込んで船団を見やるが、火炎が出るわけでも雷が落ちるわけでもない。首を傾げつつ眼を瞠り続けると、やがて目敏い数人が、海を指さした。


「おいっ、何か変だぞ?」

「海が、白くなってきたのか?」

「波が寄せて来なくなったような気がするな?」


 そう、べたなぎだった青い海が、波打ち際から徐々に、白く変わっていくのだ。そして、白くなった部分の表面には、わずかの揺らぎも見られない。これはまるで……


「おれは北方へ旅をした時、こんな海を見たことがある、あ、あの海は……凍っているんじゃないか?」


「何だとっ! こんな南国で海が凍るなんて、あり得ない!」


 しかし兵たちがありえないと断じた現象が、眼の前で起こっているのだ。海はどんどんその色を変じ、凍結した領域はどんどん沖へ向かって拡がっていく。やがて海氷は船団の停泊している領域に達し、カルタゴの戦闘艇を次々と飲み込み始めた。


「何なのだこれは!」


「氷……にしか見えませぬが、まさか……」


 カルタゴの艦隊司令部も、予想外の事態に混乱している。あり得ないという思いが、対応を遅らせる。遅れたその数分が、彼らの運命を決めた。


「やむを得ん、一旦沖合に退避せよ! 漕手は、全速!」


「だめですっ、氷が固すぎて、櫂が利きません!」


 そう、彼らがためらっていた数分のうちに、海氷はその厚みを増し、ガレー船の櫂が突き込めない固さになってしまっていたのだ。


「一体どうして、こんなことが起こるのだ!」


◇◇◇◇◇◇◇◇


「ファリド……女神の力は、ここまで凄いのか?」


「まあ、そうだな。たぶん、いけるんじゃないかと思ったんだが……王女様の腕環が、かなり助けになっているようだなあ」


 ムザッハルは感嘆というよりむしろ呆れたように問うが、ファリドは落ち着いたものである。もともとフェレの「凍結」は、覚えたての頃……クーロスと対決した頃からすでに火竜を凍らせる威力を示していた。それ以来ひたすら空気の「粒」を認識しそれを意のままに操る修練を積み、魔力量もその効率的な扱い方も、飛躍的に上昇している。そして術者を助け、より少ない魔力で魔術を現出させることができる、カシムから譲り受けたテーベの秘宝たる魔銀の腕輪が、それを後押しする。


 そんな彼女が、沿岸から一キロメートルほど海面を凍らせることは、さして難しいことではない……ファリドが「フェレなら、できる」と、耳元でささやいてやりさえすれば。


「さあ、感心しているときじゃないぞ、ムザッハル。でっかい功績が、眼の前にぶら下がっているじゃないか」


「そ、そうだった」


 まるで白昼夢でも見せられていたように呆然としていた皇子も、我に返った。


「者ども、見たか! 女神イシスの偉大なる奇蹟を! 敵のガレー船はもはや動けぬぞ、そして我々の前には、踏みしめても破れぬ堅固な氷の大地あり! さあ、皆の者、松明をとれ! 一斉に点火せよ!」


 意味も分からぬままめいめい松明を持たされていた兵士たちも、ここに至って「軍師」の意図を悟り、我先にと火を点けてゆく。そして全員が、燃え盛る炎を手にした時。


「全軍、突撃だ!」


「おおぅっ!」


 三万の大軍が、凍りついた海に向かって一斉に突っ込んだ。

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