第197話 覚悟を決めて
ファリドとフェレの内諾を得たムザッハルは、憑き物が落ちたようにすっきりした表情になって、何度もファリドの手をぎゅうぎゅうと握りしめた後、早速皇帝に謁見するためにものすごい勢いで宮殿に向かって馬を駆っていった。おそらくこれで明日か明後日には、彼を総指揮官とする軍の陣容が皇帝から勅令として発布されることになるのだろう。
「ファリド殿、返す返すも申し訳ない」
「さすがに現状の不利をひっくり返すには、二人の力が必要でござったゆえ……」
ハディードが深く頭を下げ、ラージフがフォローを入れる。
「あなた方が悪いわけではないから、それ以上の謝罪は不要です。それよりもこれからどうやって損害を最小限にこの戦を終わらせるか、そこを考えましょう」
もちろん憂鬱な気分は、ファリドも変わらない。だが、もう引き受けると決めたのだ。出来る限りフェレに負担の少ない形で早く決着させる、そこに知恵を絞ろうと、割り切った彼である。だが家族の中にも、割り切れない者がいる。
「ファリド様っ! なぜこんなスジ違いの要求をお受けになったのです! フェレ様をまた戦の最前線に引っ張り出して……多くの兵を殺めさせるのでしょう? 繊細なフェレ様のお心が傷付くとは、思われないのですか? どうか今からでも……」
「……大丈夫」
主人に向ける言葉としては厳しすぎる口調で訴えるリリの表情は、今にも泣き出しそうに見える。この娘がフェレに向ける気持ちはもはや主従というより、精神的に頼りない姉を支える強い妹のようである。だが、その訴えを途中で断ち切ったのは、フェレであった。
「……ありがと、リリ。いつも私のことだけ考えてくれて。でも今回は大丈夫だと思う」
「ですが、あれほどお優しいフェレ様にこれ以上人を殺めさせるわけには……」
「……うん。私の魔術で知らない人たちが死んでいく、それはとっても悲しいよ。だけど、今こっちに向かってくる軍隊を止めないと、リドとマルヤム、そしてリリたちとの穏やかな暮らしも、壊れちゃうってことだよね。もう私は……みんなと離れたくない。だから私は戦うよ、顔も知らないテーベ国民のためじゃない、自分のために戦うんだよ」
「フェレ様……」
普段の姿からは想像つかないほど長い台詞を一気にしゃべり切ったフェレに、リリも反論の言葉を失う。ラピスラズリのようなフェレの眼は真っすぐに前を見据え、その瞳に揺らぎはない。視線がファリドと交差すると、安定の仏頂面だった彼女の口角が、ほんのわずか上がる。
「フェレ様が戦うとおっしゃっているんだ。俺たちは『女神』のしもべ……女神様の言葉に黙って従い、支えようではないか」
いつの間にか姿を現したオーランが、なだめるように妹の肩を抱くと、リリの目尻が切なげに下がった。
「御無理を……なさらないでくださいね」
「……うん。心配かけてごめん、リリ……大好きだよ」
その言葉で涙腺が切れてしまったらしいリリが、フェレの胸に飛び込む。その頭を薄い胸で受け止めたフェレが、抱き締める腕にぎゅうっと力を込めて、へにゃりと笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「フェレ母さん、できた!」
「……すごい、マルヤムは私にない才能がある」
出征が発表されたその日も、フェレは愛娘の魔術訓練に精を出していた。
マルヤムは半魔族であり、並の人間よりはるかに大きな魔力を持っている。だがこれまで魔術の使い方を教えてくれる者は誰もおらず、まさに宝の持ち腐れとなっていた。彼女を引き取ってから、フェレは少しずつではあるが、魔力を魔術に変換することを教えてきた……将来、自分の身を守れるように。
だが今回の戦で、その教育を一気に加速せざるを得なくなった。例によってマルヤムが、帝都に置いて行かれることを徹底拒否したからだ。
「フェレ母さんと一緒に行く」
モスルの時と違い、今回フェレが赴くところは眼の前で両軍がぶつかり合う最前線である。そんなところに同行させるとなれば、最低限の戦闘用魔術を使えるようにならなければならないだろう。
かくしてフェレの魔術指導が一気に熱を帯びることになったのだが、フェレ自身が扱える魔術は身体強化の他には「粒を動かす」ことだけである。当然彼女が魔力の流し方や制御の仕方を実技で教えられるのも、その方面だけなのだ。
魔術のファーストステップである「身体強化」段階は、何の問題もなく突破した。後ろからふわりと包み込むように抱いたフェレが身体強化を一回発動してみせただけで、マルヤムは魔力の流れを把握し、あっさりとそれを再現させたのだ。そしてその強化状態でリリが短剣術と体術を教えれば、護身目的というにはどう見ても過剰な戦闘能力を持った凶悪娘が、一人出来上がりだ。有り余る魔力量は強化を数時間続けてもびくともせず、純血魔族であるはずの祖父アフシンをも唸らせた。
「儂にはこんな真似ができぬ。ものすごい魔力持ちだった儂の母から、受け継いだ力であろうかのう」
「決めた、私がこの力で、フェレ母さんを守るから!」
黄金色の瞳をキラキラと輝かせそんな健気なことを言われれば、フェレが我慢できるはずもない。全力でマルヤムを抱き締め、頬ずりをする姿を、主人から片時も離れないと決めたヤンデレ系従者のリリがうっとりと眺めていたりしたのは、まだ彼らがモスルにいた頃のようであった。
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